川合玉堂(読み)カワイギョクドウ

デジタル大辞泉 「川合玉堂」の意味・読み・例文・類語

かわい‐ぎょくどう〔かはひギヨクダウ〕【川合玉堂】

[1873~1957]日本画家。愛知の生まれ。本名、芳三郎。別号、偶庵。初め四条派、のち橋本雅邦に師事して狩野派を学び、詩情あふれる穏健な風景画に独自の画風を打ち立てた。文化勲章受章。作「彩雨」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「川合玉堂」の意味・読み・例文・類語

かわい‐ぎょくどう【川合玉堂】

  1. 日本画家。愛知県出身。名は芳三郎。四条派を学び、のち上京して橋本雅邦に入門。四条、狩野両派の様式を総合して、詩情豊かな画風を確立した。芸術院会員文化功労者。文化勲章受章。代表作「行く春」「彩雨」など。明治六~昭和三二年(一八七三‐一九五七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「川合玉堂」の解説

川合 玉堂
カワイ ギョクドウ

明治〜昭和期の日本画家 東京美術学校教授。



生年
明治6年11月24日(1873年)

没年
昭和32(1957)年6月30日

出生地
愛知県葉栗郡外割田村(現・木曾川町)

出身地
岐阜県岐阜市

本名
川合 芳三郎

別名
前号=玉舟,別号=偶庵

学歴〔年〕
岐阜尋常高小〔明治20年〕卒

主な受賞名〔年〕
文化勲章(第2回)〔昭和15年〕,朝日賞〔昭和16年〕,東京都名誉都民〔昭和30年〕,青梅市名誉市民

経歴
明治20年京都に出て、望月玉泉の門に入り、玉舟と号す。23年玉堂と改め、幸野楳嶺の円山四条派を学ぶ。29年上京、橋本雅邦に入門し狩野派を学ぶ。31年日本美術院の創立に参加。40年東京勧業博覧会出品の「二日月」が一等賞となり画名を高める。同年開設された文展では第12回展まで審査員をつとめ、大正4年東京美術学校教授に就任。6年帝室技芸員、8年帝国美術院会員、昭和12年帝国芸術院会員となり、15年文化勲章受章。狩野派と四条円山派を融合させ、詩情豊かな画風を完成させた。代表作に「行く春」「彩雨」「鵜飼」など。また詩歌素養も深く、俳句集「山笑集」、歌集「若宮抄」、俳歌集「多摩の草屋」がある。没後、東京・青梅市に玉堂美術館が建設された。平成7年東京・奥多摩町の数馬峡橋の畔に歌碑が完成。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「川合玉堂」の意味・わかりやすい解説

川合玉堂
かわいぎょくどう
(1873―1957)

日本画家。明治6年11月24日愛知県に生まれる。本名芳三郎。1887年(明治20)京都に出て望月玉泉(もちづきぎょくせん)に、ついで90年に幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事して四条派を学んだ。この年、第3回内国勧業博覧会に出品して褒状を受け、日本青年絵画協会、日本美術協会などでも受賞した。95年、第4回内国勧業博覧会で橋本雅邦(がほう)の『竜虎図』に感動し、翌年上京してその門に入った。1907年(明治40)の東京勧業博覧会に『二日月』を出品して注目を集め、四条派と狩野(かのう)派を巧みに融和させたその表現は多くの追従者を生んだ。またこの年開設された文展の審査員にあげられ、以後官展で活躍することになり、とくに16年(大正5)の第10回文展に出品した『行く春』は、穏和な筆致で自然のたたずまいを情趣豊かにとらえ、その地歩を不動のものにした。15年から36年(昭和11)まで東京美術学校教授。また長流塾を開いて門下を育てた。17年に帝室技芸員、19年に帝国美術院会員、37年には帝国芸術院会員となり、40年文化勲章を受章した。歌もよくし、歌集『多摩の草屋』がある。昭和32年6月30日没。晩年を過ごした東京青梅(おうめ)市御岳(みたけ)の旧居は、玉堂美術館(1961創設)として公開されている。

原田 実]

『永井信一・難波専太郎解説『現代日本の美術1 下村観山/川合玉堂』(1976・集英社)』『河北倫明編『現代の水墨画6 川合玉堂・川端龍子』(1983・講談社)』『佐々木直比古他解説『川合玉堂写生帖 花鳥編・山水編』全2冊(1979・グラフィック社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川合玉堂」の意味・わかりやすい解説

川合玉堂
かわいぎょくどう

[生]1873.11.24. 愛知,外割田
[没]1957.6.30. 東京,青梅
日本画家。本名は芳三郎。 1887年京都へ出て望月玉泉,幸野楳嶺円山四条派を学ぶ。初め玉舟と号し,のち玉堂に改号。 1896年上京して橋本雅邦門人となり狩野派を習い,1898年雅邦に従って日本美術院の創立に参加。院展や文部省美術展覧会 (文展) に出品し,四条派,狩野派両派を取捨選択して独自の画風を築き,田園生活の穏和な潤いのある風景画を得意とした。文展審査員,東京美術学校教授 (1915~38) ,帝室技芸員,帝国美術院会員,帝国芸術院 (日本芸術院 ) 会員となり,1940年文化勲章を受章,1951年文化功労者。 1944年から移り住んだ東京西多摩の住居は,没後に玉堂美術館となり作品を展示。主要作品『焚火』 (1903,五島美術館) ,『行く春』 (1916,東京国立近代美術館) ,『鵜飼』 (1931,東京芸術大学) ,『峰の夕』 (1935) ,『彩雨』 (1940,永青文庫) ,『屋根草を刈る』 (1954,東京都) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「川合玉堂」の意味・わかりやすい解説

川合玉堂 (かわいぎょくどう)
生没年:1873-1957(明治6-昭和32)

日本画家。愛知県木曾川町に生まれる。本名芳三郎。別号偶庵。1887年京都に出て望月玉泉,続いて幸野楳嶺に師事。その後,橋本雅邦の《竜虎図》に感動,96年上京してその門に入る。狩野派を学び,岡倉天心,雅邦を指導者とする日本絵画協会に出品し,しだいに注目される。1907年東京府勧業博覧会出品の《二日月》が好評を博し,第1回文展以降審査員となる。四条派の親しみやすい即物的作風と,狩野派の折り目正しい品格を合わせた画境を開き,第2次大戦前の日本のどこにでも見られる風景と生活を主題とした。15年東京美術学校教授,19年帝国美術院会員,40年に文化勲章を受けた。代表作に《行く春》《宿雪》《峰の夕》,最晩年の《暮雪》《月天心》がある。晩年を過ごした奥多摩御岳に,61年玉堂美術館が開設された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「川合玉堂」の意味・わかりやすい解説

川合玉堂【かわいぎょくどう】

日本画家。本名芳三郎。愛知県に生まれ,京都で幸野楳嶺四条派を,次いで東京で橋本雅邦狩野派を学ぶ。両派の伝統的画法に基づいて日本の温雅な自然を描き,1940年文化勲章。代表作《行く春》《宿雪》など。その作品を集めた玉堂美術館が青梅市にある。
→関連項目岐阜県美術館

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「川合玉堂」の解説

川合玉堂
かわいぎょくどう

1873.11.24~1957.6.30

明治~昭和期の日本画家。愛知県出身。本名芳三郎。京都で望月玉泉・幸野楳嶺(こうのばいれい)に,東京で橋本雅邦(がほう)に師事。1907年(明治40)東京勧業博覧会出品作「二日月」で脚光を浴びる。第1回より文展審査員を務める。15年(大正4)東京美術学校教授。四条派と狩野派を融合させ,穏やかで素直な画風の風景画を描いて人気を博した。歌人としても名高い。帝室技芸員・帝国美術院会員。40年(昭和15)文化勲章受章。51年文化功労者。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川合玉堂」の解説

川合玉堂 かわい-ぎょくどう

1873-1957 明治-昭和時代の日本画家。
明治6年11月24日生まれ。望月玉泉,幸野楳嶺(こうの-ばいれい),橋本雅邦にまなぶ。明治40年東京府勧業博覧会1等賞の「二日月」で注目をあび,四条派と狩野派を融和させた画境をひらく。文展審査員,東京美術学校(現東京芸大)教授をつとめる。帝国美術院会員。昭和15年文化勲章。昭和32年6月30日死去。83歳。愛知県出身。本名は芳三郎。別号に偶庵。作品はほかに「行く春」「彩雨」「月天心」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「川合玉堂」の解説

川合玉堂
かわいぎょくどう

1873〜1957
明治〜昭和期の日本画家
愛知県の生まれ。初め幸野楳嶺 (ばいれい) ,のち橋本雅邦に師事。狩野派と四条派の調和の上に日本の自然を詩情豊かに描いた,風景画の新生面を開拓,官展日本画の重鎮として活躍した。1940年文化勲章受章。代表作に『行く春』『暮雪』など。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「川合玉堂」の解説

川合 玉堂 (かわい ぎょくどう)

生年月日:1873年11月24日
明治時代-昭和時代の日本画家
1957年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android