弁財天町(読み)べんざいてんちよう

日本歴史地名大系 「弁財天町」の解説

弁財天町
べんざいてんちよう

東山区大和大路三条下ル三丁目西側

東は大和大路、南はしら川、西は鴨川。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「弁財天町 但東側は(ママ)町と云。西側二町にわかる。此町の南に大和橋有。是白川の下流也」とみえる。

開町以前、この地に弁財天の祠堂があり、「雍州府志」に「弁財天ノ社ハ始メ在大和橋ノ北、今絶、斯堤ノ上、未有家居時、有大苦棟樹、則此処也、爾後、民家並檐、苦棟樹亦為烏有、然レトモ今、斯処弁財天町」とみえる。「粟田名勝旧蹟」によれば弁財天社は寛永一〇年(一六三三)六月、神像とともに青蓮院境内「十禅師の古宮」に遷座したというが、明治五年(一八七二)に廃され(京都府地誌)、現存しない。


弁財天町
べんざいてんちよう

中京区新町竹屋町下ル

新町しんまち(旧町尻小路)を挟む両側町で、北を竹屋町たけやまち(旧大炊御門大路)、南を夷川えびすがわ(旧冷泉小路)が東西に通る。

平安京の条坊では、町の東側が左京二条三坊二保六町の西、西側は左京二条三坊二保三町の東。平安中期以降は大炊御門町尻小路の南側。当町西半は大炊殿の敷地にあたる(拾芥抄)

嘉慶二年(一三八八)四月二五日付の祇園社御燈所京都敷地事(祇園社記)には「一、大炊御門町南東頬」とあり、当時北東部は祇園社の御灯料所として、「地口」を免除されていた。


弁財天町
べんざいてんちよう

下京区諏訪町通松原下ル

南北に通る諏訪町すわんちよう通を挟む両側町。

平安京の条坊では、左京六条三坊四保九町中央の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「弁才天丁」とみえ、以後変化はない。町名について「坊目誌」は、「往時弁財天の祠此町にあり故に名く」とし、また現東山区の「下河原弁天町は当町より開拓し移住せり」とする。

町内には、京都所司代に属して行政・検察司法の末端機構の役割を果した四座雑色の一家である松尾家があった。京都御役所向大概覚書によればその管轄区域は、室町四条の辻より巽(東南)の方の、洛外町続町九五町・洛外村一八四村であった。徳川幕府による四座雑色設定は慶長六年(一六〇一)であるが(雑色要録)、松尾家の町内居住年次は不明。


弁財天町
べんざいてんちよう

上京区今出川通新町西入

町の東側を南北に新町しんまち通が通り、北は今出川いまでがわ通。

町名はこの地に弁財天の祠があったことによる。この祠は室町幕府九代将軍足利義尚の小川御所の鎮守であったといわれる。中古京師内外地図は当町辺りに「小川御所」を描く。弁財天は「親長卿記」の文明一〇年(一四七八)六月二五日条に「当時皇居御庭、弁財天勧請、有北小路殿居住之時勧請也」と記され皇居に移されている。


弁財天町
べんざいてんちよう

[現在地名]和歌山市弁財天丁

弁財天山東側に位置する南北の武家屋敷町で、寛政城下町絵図によれば北詰は岡野監物邸の裏。明治五年(一八七二)武家屋敷地に正式の町名を付したが、その折弁財天町筋の南をたに町、谷町と弁財天町との境付近の東西通りを山蔭やまかげ(現山蔭丁)とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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