弘瀬村(読み)ひろせむら

日本歴史地名大系 「弘瀬村」の解説

弘瀬村
ひろせむら

[現在地名]宿毛市沖の島おきのしま町弘瀬

沖の島の西南部にある漁村(浦方)。「土佐州郡志」は「沖之島弘瀬浦 東西一町南北一町」と記し、「沖島の記」(高知市民図書館蔵)は島と村の様子を「山甚タ嶮岨ニシテ岩多シ、浪常ニ高ク荒テ船着アシヽ、西風四季ニ吹キ冬ハ卅日バカリ渡海ナラズ、柏島ヨリ海路四里未申向キ、弘瀬風景唐画ノ如シ、(中略)石ヲ壁ニシタルアリ、家造リ甚低シ、一段々々ニ家アリ、上ノ家ノ庭ヨリ下段ノ家ノ屋根ヲ海ニ見越ス、(中略)人物常ニ月代セズ、着用短ク紐帯ナリ、色黒ク目多く丸シ、夜ナドハ男女見別ガタキコトアリ」と述べる。同書は天保一四年(一八四三)小尽こづくし浦庄屋浜田魚臣が著したもので、島の祭礼・年中行事・習俗・産物・動植物・言語などについて詳しく記している。

当地の開発は鎌倉武士三浦氏が落人となって土着したのに始まると伝え、「沖島弘瀬浦焼網漁来由並雑記」(「南路志」所引三浦家文書)

<資料は省略されています>

とあり、三浦新助が鎌倉より持参したという鎧を神体として祀ったのが当地の若宮神社であるという。


弘瀬村
ひろせむら

[現在地名]土佐山村弘瀬

つづみ村の西にあり、土佐山郷一村かがみ川は当地で南流してきたひがし川を合せ、大きく曲流、峡谷をうがって地頭分じとうぶん今井いまい(現鏡村)に出る。広瀬とも書き(元禄地払帳)、「土佐州郡志」は「東限桑尾・都積・(網)川、西限地頭分之大利、南限円行寺以北仏瀬休場、北限桑尾之熊川、東西十八町許南北三十町余、戸凡七、其土黒、日比原・大久保・志多之蔵・鍛冶之奈路・下広瀬五村属此村」「日比原村 当村東北、戸凡三」「大久保村 戸凡六」「志多之蔵村 当村南、臨川成村、戸凡六」「鍛冶之奈路村 在志多之蔵東南、与都積之(網)川相接、戸凡四」「下広瀬村 当村西、戸凡十有余」と記す。


弘瀬村
ひろせむら

[現在地名]十和村広瀬ひろせ

四万十しまんと川と長沢ながさわ川の合流地点の下流、四万十川が大きく蛇行して撥形に弧を描いて流れる内側、四万十川が東・南・西の三方をめぐるところに位置し、四万十川を挟んで井崎いさき村に相対する。上山かみやま下分しもぶんの一村。「土佐州郡志」は「東限大川、西限宮之窪、南限下弘瀬、北限陰平、東西四町南北二十町、戸凡二十六、其土黒」と記す。

村名は慶長二年(一五九七)の上山郷地検帳にみえ、当時は大井川おおいがわ村を構成する一村であった。


弘瀬村
ひろせむら

[現在地名]北川村弘瀬

安倉あぐら村の西、奈半利なはり川の支流小川こがわ川右岸にある。西は平鍋ひらなべ村。左岸は険しい山が川まで迫る。北川村の枝村。天正一五年(一五八七)の北川之村地検帳は弘瀬村東小川名として四七筆二町二反二六代三歩を記すが、うち一町三反二六代が切畑でその比率は大きい。屋敷は一一筆、ほかに慶性庵寺中が記される。


弘瀬村
ひろせむら

[現在地名]吾北村下八川しもやかわ 広瀬ひろせ

下八川村の北、上八川川に西から新別しんべち川が合流する一帯を村域とする。下八川村の枝村。天正一八年(一五九〇)の小川村々地検帳には下八川名弘瀬村は七筆しか記されないが、村切が行われた寛文四年(一六六四)の張紙では「自是下八川之内弘瀬村」として津賀淬名津賀淬村四〇筆九町一四代三歩(うち山畑三町五反余・切畑三町一反余)と、下八川名弘瀬村一筆二代が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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