中国,三国蜀漢の名将。字は益徳。涿郡(たくぐん)(河北省)の出身。後漢末期,黄巾(こうきん)の乱後の大混乱期に各地で群雄がそれぞれの勢力を結集し始めたころ,同郡の劉備(りゆうび)が親分となって俠客やチンピラ(当時の言葉で〈年少〉とか〈少年〉とかいう)を集めると,関羽とともに劉備に兄事し,その護衛にあたった。彼らは兄弟のような関係,つまり義兄弟関係でつながり,張飛はその中でもっとも年下の弟であった。山東省・江蘇省一帯や荆州(湖北省)での戦いに,終始劉備のために奮戦し,一騎万人に当たる勇猛さによって関羽とならび称された。その後,劉備に従って蜀(四川省)に入り,途中での抵抗を破砕しつつ,これを平定したのち,北方漢中からの魏の進出に対する防衛にあたった。221年(章武1),劉備が孫権討伐を計画したとき,征討軍に合流すべく出発する直前,部下たちに殺された。彼は関羽と反対に,文人官僚を尊敬して軍人を軽蔑したからだという。
執筆者:川勝 義雄
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中国、三国蜀(しょく)の武将。涿(たく)郡(河北省涿県)の人。字(あざな)は益徳(えきとく)。諡号(しごう)は桓(かん)侯。劉備(りゅうび)と同郷で、備が兵をおこすと関羽(かんう)とともに参加し、以後行動をともにした。関羽より数年の年少であったので、羽に兄事した。208年、魏(ぎ)の曹操(そうそう)が南下すると、荊州(けいしゅう)にいた劉備は南に逃れるが、このとき、当陽の長坂(ちょうはん)橋上(湖北省当陽県)で、矛(ほこ)を横たえ目をいからし「我は張益徳なるぞ、きたりてともに死を決すべし」と叫んだのは有名である。劉備が入蜀すると、これに同行したが、益州牧の劉璋(りゅうしょう)の任じていた巴(は)郡太守厳顔(げんがん)と対戦し、顔の璋に対する忠節に感じて彼を賓客にした。劉備は張飛を巴西(はせい)太守に任命して、魏の将張郃(ちょうこう)の巴西侵入を防いで功があった。彼は勇猛であり、平生部下をあわれまぬところがあり、つねに鞭(むち)打っていたので、備はいつもこのことを飛に注意していた。備の対呉戦争に同行する準備の最中に、部下の手にかかって殺された。備は飛からの使者と聞いて、ただちにその死を予感したという。
[狩野直禎]
『狩野直禎著『諸葛孔明』(1966・人物往来社)』
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