中国,三国時代の蜀国の丞相で,代表的な忠臣とされる。本名は亮(りよう)で諸葛亮としても知られるが,字の孔明のほうが有名。琅邪(ろうや)陽都(山東省沂水(ぎすい)県)の出身であるが,早く父を失い,叔父に従って湖北省襄陽に割拠していた荆州長官の劉表のもとに寄寓し,晴耕雨読の生活を送ったが,その地の社交界では〈臥竜〉との評判を得ていた。たまたま劉表を頼って荆州に来た劉備は,その評判を聞くと,207年(建安12)に孔明の庵を訪れ,3度目にやっと会見できた。いわゆる〈三顧の礼〉にこたえた孔明は,劉備のために〈天下三分の計〉を説き,華北を制圧した曹操に対抗して漢室を復興するためには,江南に割拠する孫権と連合し,みずから荆州と益州(四川省)を確保して独立すべきことを勧めた。劉備はこの計略を喜び,孔明を不可欠な人物としてその関係を〈水魚の交わり〉にたとえた。208年,南下してきた曹操の軍を前にして劉表は病死し,その子の劉琮が降伏したため,孔明はただちに劉備の使者として孫権のもとに行き,同盟の必要性を説得して,結局,赤壁の戦勝をもたらすことができた。
かくて天下三分の計の実現にのりだした劉備は荆州長官となり,孔明も長沙など3郡の監督にあたったが,211年に劉備が益州に入り,その地の長官の劉璋と対立すると,孔明も劉備を助けて蜀に入り,214年,劉備は成都を占領して益州長官になった。221年(章武1),蜀漢国が成立して劉備が帝位につくと,孔明は丞相となって補佐したが,223年,危篤に陥った劉備は後事いっさいを孔明に託して死ぬ。孔明は後主劉禅を補佐することを誓い,ひきつづき丞相として国事を主宰した。彼の目的は魏から中原を奪回して劉氏の漢室を復興することにあり,そのために呉蜀同盟を固め,南は雲南に及ぶ地域の異民族を平定慰撫して後方の不安を除き,物資の補給を容易にしたのち,227年(建興5)から魏に対する北伐に全力をあげた。出陣に際して有名な〈出師表(すいしのひよう)〉を後主にささげて忠誠憂国の心を吐露したあと,7年間を戦地に送り,しばしば関中に進出して魏の心胆を寒からしめたが,234年,五丈原(陝西省郿県南西)の近くで魏の将軍司馬懿(しばい)と対峙していたとき,病に倒れた。
→三国演義
執筆者:川勝 義雄
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中華人民共和国南西部にある省。略称は川,蜀(しよく)。面積48万8000km2,人口8323万(1995)。北は陝西,甘粛,青海の各省,西はチベット自治区,南は雲南,貴州,東は重慶の各省,直轄市と接する。12地区級市,4地区,3自治州からなり,さらにこれらが179県級行政地域(34市轄区,18市,124県,3自治県)に区分されている。省都は成都市。
[自然]
四川省はおおむね東部の四川盆地と西部の山地高原部に区分できる。…
…中国,三国蜀の丞相であった諸葛孔明(しよかつこうめい)が,227年(建興5),魏国討伐に出陣するとき,後主劉禅に奉呈した上表文。《文選》にこの題をつけて収録された。…
…華北平定に成功した曹操は,208年(建安13)中国統一の目的で南下してきた。劉備の謀臣諸葛孔明(しよかつこうめい)は孫権のもとに赴き,劉備・孫権の同盟に成功,長江を下って来た曹操の軍と赤壁で対峙,火攻の計でこれを打ち破った。こうして天下三分の情勢がほぼ成立した。…
※「諸葛孔明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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