徳川家定(読み)とくがわいえさだ

精選版 日本国語大辞典 「徳川家定」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐いえさだ【徳川家定】

江戸幕府第一三代将軍家慶の四男。幼名政之助ついで家祥。嘉永六年(一八五三)将軍となる。生来虚弱で内外の政務は、阿部正弘井伊直弼らに一任、子がなかったため将軍継嗣問題が起こり、政局混乱を招いた。文政七~安政五年(一八二四‐五八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「徳川家定」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐いえさだ〔トクがはいへさだ〕【徳川家定】

[1824~1858]江戸幕府第13代将軍。在職1853~1858。家慶の四男。生来病弱のため、政治老中に一任。後嗣がなく、将軍継嗣問題が起きた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「徳川家定」の意味・わかりやすい解説

徳川家定【とくがわいえさだ】

江戸幕府13代将軍(在位1853年―1858年)。12代家慶(いえよし)の子。幼名政之助。初名家祥。諡号(しごう)温恭院。将軍就任後すぐに日米和親条約締結。病弱なため老中阿部正弘が補佐。嗣子がなく,将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題で紛糾するなか没した。
→関連項目将軍継嗣問題

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川家定」の意味・わかりやすい解説

徳川家定
とくがわいえさだ
(1824―1858)

江戸幕府第13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の第4子。幼名政之助、初め家祥。ペリー来航直後の1853年(嘉永6)7月家督を継ぎ、10月将軍宣下(せんげ)。内外多難であったが、病弱で老中阿部正弘(あべまさひろ)らに政務を一任した。1857年(安政4)10月、米国総領事ハリスを江戸城中に引見したことは、のちにハリスの『日本滞在記』で広く紹介された。実子がなかったために、後継者をめぐって将軍継嗣(けいし)問題が起こり、また日米の通商条約勅許を得られず、政局が激動した。1858年4月、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任すると、紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を継嗣と定め、ついで6月、通商条約調印を強行し、7月、政局紛糾のなかに病死した。法号温恭院。

[井上勝生]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「徳川家定」の解説

徳川家定

没年:安政5.7.6(1858.8.14)
生年:文政7.4.8(1824.5.6)
徳川13代将軍。12代将軍家慶の子,母は跡部氏美津。天保8(1837)年世子に定められ,同12年西ノ丸に移る。嘉永6(1853)年6月家慶が死去,同年11月将軍宣下を受けた。性来病弱,癇癖が強く人前に出ることを嫌ったといわれ,また子を得なかった。安政4(1857)年10月アメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見,この前後より将軍の継嗣選定が問題となり始める。一方の候補は徳川宗家と血脈の近い紀州藩主徳川慶福(家茂),他方は徳川(一橋)慶喜で尾張藩主徳川慶恕,越前藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬がこれを支持し一橋派を構成した。翌年,老中堀田正睦が条約勅許を得ることに失敗したのちの4月,井伊直弼を大老に任じて幕政指導を委ねた。5月1日,大老・老中を招集し,慶福を継嗣とする意向を伝え,6月25日公表。次いで7月5日,慶福の安全を図るため一橋派の大名を処分,翌日没した。<参考文献>『続徳川実紀

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「徳川家定」の意味・わかりやすい解説

徳川家定 (とくがわいえさだ)
生没年:1824-58(文政7-安政5)

江戸幕府13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の嗣子。幼名政之助。家祥と称する。1853年(嘉永6)7月に宗家を相続,11月に将軍となり家定と改名した。アメリカ,ロシアなどとの和親条約締結後,57年(安政4)に通商を要求するアメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見した。家定は病弱で子がなく,将軍継嗣問題が起き,一橋派と南紀派が対立した。58年井伊直弼の大老就任後,家定は紀州藩主慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を継嗣とし,同年没した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳川家定」の解説

徳川家定
とくがわいえさだ

1824.4.8~58.7.6

江戸幕府13代将軍(在職1853.11.23~58.8.8)。父は12代家慶(いえよし)。母は側室本寿院。幼名政之助。はじめ家祥(いえさき)。法号温恭院。1825年(文政8)世子。41年(天保12)西丸入り。鷹司政通の養女有姫,ついで一条実良の女寿明(すめ)姫を妻に迎えたが,ともに早世。53年(嘉永6)将軍職を継いで家定と改めた。同年6月3日にペリーが浦賀に来航し,世情が動揺した時期であった。老中阿部正弘は,雄藩大名との協調路線から鹿児島藩主島津斉彬(なりあきら)の養女篤姫(あつひめ)を近衛忠熙(ただひろ)の養女として家定の御台所に迎えた。家定は病弱で,世子の誕生が期待できなかったため,将軍継嗣が重大な政治問題となり,58年(安政5)大老井伊直弼(なおすけ)が和歌山藩主慶福(よしとみ)(家茂)を継嗣と決定,直後に没した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川家定」の意味・わかりやすい解説

徳川家定
とくがわいえさだ

[生]文政7(1824).4.8. 江戸
[没]安政5(1858).7.6. 江戸
江戸幕府 13代将軍 (在職 1853~58) 。家慶の4男。母は跡部氏。幼名は政之助,初めは家祥 (いえよし) といった。院号は温恭院。嘉永6 (53) 年 10月 23日将軍宣下。当時はペリー来航後の騒然たる情勢であったが,生来虚弱であったため,阿部正弘を老中とし,水戸の徳川斉昭を顧問格として外交問題を処理しようとした。しかし安政4 (57) 年阿部正弘の死後は,朝廷や西南雄藩との協調が破れ,また嗣子のなかったことから将軍継嗣問題が起り,一橋派と紀伊派が対立,井伊直弼の独裁を許し内政,外交ともに混乱した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川家定」の解説

徳川家定 とくがわ-いえさだ

1824-1858 江戸幕府13代将軍。在職1853-58。
文政7年4月8日生まれ。徳川家慶(いえよし)の4男。母はお美津の方(本寿院)。嘉永(かえい)6年将軍となるが,病弱のため,老中阿部正弘(まさひろ)が政務を補佐。安政4年アメリカ総領事ハリスを江戸城内で引見。子がなく将軍継嗣問題がおき,紀伊(きい)和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を跡継ぎと決定した。安政5年7月6日死去(発喪は8月8日)。35歳。幼名は政之助。初名は家祥(いえさき)。法号は温恭院。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「徳川家定」の解説

徳川家定
とくがわいえさだ

1824〜58
江戸幕府13代将軍(在職1853〜58)
12代将軍家慶 (いえよし) の4男。ペリー来航の年に将軍となり,通商条約勅許問題の最中に病没。生来病弱で子がなく,晩年に将軍継嗣問題が発生した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「徳川家定」の解説

徳川家定 (とくがわいえさだ)

生年月日:1824年4月8日
江戸時代末期の江戸幕府第13代の将軍
1858年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の徳川家定の言及

【将軍継嗣問題】より

…江戸幕府の末期,13代将軍徳川家定の継嗣をめぐる紛争。12代家慶(いえよし)がペリー初度来航の1853年(嘉永6)に死ぬと,次の家定は病弱で非常時の将軍にふさわしくないうえに子供がないため,継嗣問題が切実になった。…

※「徳川家定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android