心光寺(読み)しんこうじ

日本歴史地名大系 「心光寺」の解説

心光寺
しんこうじ

[現在地名]左京区超勝寺門前

寺門は東面して超勝寺ちようしようじの辻子に向かう。法城山晴明堂と号し、浄土宗本尊阿弥陀如来は「浄家寺鑑」によれば安阿弥の作。「雍州府志(寺院門)法城ほうじよう寺の項に「在五条橋東北中嶋、安倍晴明祈河水氾溢、水立処流去、依之建寺於河辺、号法城寺、為地鎮、言水去成土之義也、晴明死後葬斯寺、世称晴明塚、此寺始真言宗也、中世為浄土宗、安置弥陀、改号心光寺、属知恩院、爾後洪水数度入寺中、不安居、慶長十二年住職寿林和尚移寺於三条橋東、今所存之器物、有法城寺之字者多」とあり、心光寺の前身は法城寺といい、陰陽家安倍晴明の治水伝承と深く結びついた寺院で、かつては「五条橋東北中嶋」(鴨川の中洲=島)に所在していたこと、真言宗であったがのち改宗・改号して知恩院末となったこと、数度の洪水に遭い、慶長一二年(一六〇七)現在地に移転したことなどが知られる。


心光寺
しんこうじ

[現在地名]水口町城東

江戸時代の天神てんじん町の南、東海道に面して境内が広がる。護念山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。南は水口みなくち城の武家地。延宝七年(一六七九)の地子赦免帳(水口宿文書)によれば、境内は東西六〇間・南北五九間。寺名は真光寺とも記したようである。寺伝によれば、延喜三年(九〇三)当地寄寓中の菅原淳茂(道真四男)が父の冥福を祈るため開いたという。


心光寺
しんこうじ

[現在地名]小浜市大宮

後瀬のちせ山の北側山麓にある。常照山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寛永七年(一六三〇)小浜藩主京極忠高がその夫人孝安院(徳川秀忠女)の牌所として建立孝安こうあん寺と称したという(若狭郡県志)。のち寛永一八年に没した酒井忠勝夫人心光院の牌所となり、現寺号に改めた。酒井忠用母春岳院や忠用侍妾秋爽院の廟所もあり、寛延四年(一七五一)四月二〇日には僧一人、米一〇俵を新寄付している(「酒井氏奉行人連署奉書」当寺文書)


心光寺
しんこうじ

[現在地名]大畑町大畑 南町

みなみ町の南に位置する。月想山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。正保四年(一六四七)盛岡もりおか(現岩手県盛岡市)大泉だいせん寺五世真入の開山と伝え(新撰陸奥国誌)、寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「心光寺 月想山盛岡大泉末寺、浄土宗」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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