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快川紹喜 かいせんじょうき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

快川紹喜
かいせんじょうき

[生]?
[没]天正10(1582).4.3. 甲斐
戦国時代臨済宗の僧。快川は号。俗姓土岐。美濃の人。天正9 (1581) 年,正親町天皇より大通智勝国師の号の特賜を受ける。初め妙心寺の独秀乾才門下の仁岫宗寿に嗣法,妙心寺に住み,のち美濃の崇福寺,さらに武田信玄の帰依を受け,甲斐恵林寺に移住した。

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デジタル大辞泉の解説

かいせん‐じょうき〔クワイセンゼウキ〕【快川紹喜】

[?~1582]戦国時代の臨済宗の僧。美濃の人。俗姓、土岐氏。武田信玄に招かれ、甲斐(かい)恵林寺で禅風を伝えた。織田信長武田勝頼を攻めたとき、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と唱え、諸僧とともに兵火の中に没した。大通智勝国師。

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百科事典マイペディアの解説

快川紹喜【かいせんじょうき】

戦国時代の臨済宗の僧。美濃(みの)の人。武田信玄の帰依(きえ)をうけ甲斐(かい)の恵林寺(えりんじ)(甲州市にある)に住した。1582年織田信長武田勝頼(かつより)を攻めたとき寺を焼かれたが,〈心頭を滅却すれば火もまた涼し〉と唱えつつ,山門楼上の火中に座したまま死したと伝える。
→関連項目恵林寺

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

快川紹喜 かいせん-じょうき

?-1582 戦国-織豊時代の僧。
臨済(りんざい)宗。仁岫宗寿(にんしゅう-そうじゅ)の法をついで京都妙心寺の住持となる。のち美濃(みの)(岐阜県)崇福寺の住持をへて武田信玄の招きで甲斐(かい)(山梨県)恵林寺にはいる。武田勝頼織田信長にほろぼされたとき,恵林寺に火をかけられ,天正(てんしょう)10年4月3日一山の僧百余人とともに火中に没した。死にのぞみ,「安禅必ずしも山水を須(もち)いず。心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と,「碧巌録」の一句をとなえたという。美濃出身。俗姓は土岐。諡号(しごう)は大通智勝国師。

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朝日日本歴史人物事典の解説

快川紹喜

没年:天正10.4.3(1582.4.25)
生年:生年不詳
戦国時代の臨済宗の僧。美濃国(岐阜県)土岐氏の出身。妙心寺第27世仁岫宗寿の法を嗣ぐ。美濃国南泉寺,崇福寺の住持となるが,同国伝燈寺が引き起こした国内の禅刹統轄権をめぐる争いで,国を出る。甲斐国(山梨県)に行き国分寺に住するが,武田信玄の帰依を受け恵林寺の住持となる。信玄の道号「機山」は快川の与えたものである。天正9(1581)年大通智勝の国師号を朝廷から受けた。信玄没後,織田信長が武田勝頼を攻めたとき,一山の僧と共に三門上にこもり焼死した。そのときの「安禅必ずしも山水を須ひず,心頭滅却すれば火も自ずから涼し」の辞世の語は有名である。

(原田正俊)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

かいせんじょうき【快川紹喜】

?‐1582(天正10)
戦国時代の臨済宗の僧。土岐氏の一族として美濃に生まれる。京都妙心寺に住し,のち美濃崇福寺,さらに武田信玄の招請により甲斐恵林寺に移る。武田氏滅亡に際し,佐々木承禎(じようてい)一味をかくまったことから,織田信長の兵に寺を焼かれ,火中に没した。このとき〈安禅は必ずしも山水をもちいず,心頭滅却すれば火も自ずから涼し〉と唱えたという。【笹本 正治】

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大辞林 第三版の解説

かいせんじょうき【快川紹喜】

?~1582) 室町末期の臨済宗の僧。美濃の人。武田氏に招かれ、甲斐の恵林寺えりんじに住す。武田勝頼が織田信長に攻められた時、恵林寺にて諸僧とともに火中に没した。 → 心頭しんとう滅却すれば火もまた涼し

出典|三省堂
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世界大百科事典内の快川紹喜の言及

【恵林寺】より

…しかし1520年代に荒廃し,のち妙心寺派の明叔(みようしゆく)慶浚によって復興され,臨済宗妙心寺派寺院となった。その後同じ妙心寺派の禅に帰依していた武田信玄が,64年(永禄7)当寺に快川紹喜を招いて住持とした。この時信玄は,当寺を菩提寺にすると共に寺領300貫文を寄せ寺基を固めた。…

【織田信長】より

…また信長は律令制的支配を象徴する朝廷を保護し,内裏の修造,廷臣門跡の窮乏を救済する徳政の実施,皇大神宮・石清水八幡宮の保護など国家的支配に関与し,朝廷でも太政大臣か将軍の地位を贈る意向があった。信長はまた宗教の世俗的権威を否定し,1571年浅井・朝倉軍に荷担した延暦寺を,81年指出を拒否した槙尾寺を焼き,罪人を隠匿した金剛峯寺制裁のため多くの高野聖を斬り,82年甲斐恵林寺の快川紹喜を焚殺した。そして惣村や渡りの商工業者集団を基盤とする一向一揆には鏖殺(おうさつ)(みな殺し)戦術をもって臨み,町衆を信仰受容層とする日蓮宗には79年安土宗論を行わせてこれを弾圧した。…

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