平安末期の天台宗の僧。京都の人。父は藤原貞叙(ふじわらのさだのぶ)、母は源俊賢女(みなもとのとしかたのむすめ)で『成尋阿闍梨母集』の作者。母方の縁者文慶(もんけい)(966―1046)に就いて京都岩倉大雲寺に入る。顕密二教を学び、43歳で延暦寺(えんりゃくじ)総持院阿闍梨(あじゃり)となる。1072年(延久4)3月、62歳で入宋(にっそう)し、杭州(こうしゅう)・天台山(浙江(せっこう)省)、蘇州(そしゅう)・南京(ナンキン)(江蘇省)、東京(トンキン)(河南省)、五台山(山西省)を巡拝した。宋地で収集した仏典を、1073年6月、同行した頼縁(らいえん)らに託して日本へ送ったが、自らは宋の神宗(しんそう)(在位1067~1085)の強い慰留で帰国を断念し、同地で寂した。天台山国清寺(こくせいじ)に葬られ、神宗より善慧大師(ぜんねだいし)の号を賜った。成尋が入宋の途についてから頼縁らが帰国するまでを克明につづった『参天台五台山記(さんてんだいごだいさんき)』は、渡海した僧の行動、宋地の当時のようすを語る貴重な資料である。
[中尾良信 2017年8月21日]
(小原仁)
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平安中期の天台宗の僧侶。藤原貞叙の子(一説に参議藤原佐理の子)。母は《成尋阿闍梨(あじやり)母集》の作者として名高い。7歳のとき,岩倉大雲寺に入り受戒。1054年(天喜2)勅を受けて延暦寺総持院阿闍梨となり,72年(延久4)62歳のとき入宋し,天台,五台の両山を歴遊した。ついで汴京(べんけい)にて神宗に謁し,紫衣を許された。その後太平興国伝法院に住し,同地における訳経事業にも参加した。73年夏,祈雨の修法をなして,宋朝より善慧大師の号を受け,かつ同年には大小乗経律論527巻を便船に託して日本へ送った。翌年,方物を白河天皇に献じ,また宋の皇后より贈られた十六羅漢像等を大雲寺に寄せた。81年(永保1)病により,帰朝の志を抱きながら開宝寺で没したが,勅により国清寺に葬られ,日本善慧国師の銘刻を有する塔が建てられた。著書は《観心論註》《法華経註》《参天台五台山記》等。
執筆者:上田 純一
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1011~81.10.6
善慧(ぜんね)大師とも。平安中期の天台宗僧。父は陸奥守藤原実方(さねかた)の子貞叙。母は源俊賢(としかた)の女で歌集「成尋阿闍梨(あじゃり)母集」がある。はじめ岩倉大雲寺の文慶(もんきょう)に師事,ついで悟円(ごえん)・行円・明尊(みょうそん)から台密を受法。1041年(長久2)大雲寺別当。延暦寺阿闍梨となり,藤原頼通(よりみち)の護持僧を勤めた。72年(延久4)渡宋し,天台山・五台山を巡礼。神宗(しんそう)に謁し,祈雨法を修して善慧大師の号を賜った。また経典など六百数十巻を集めて日本に送ったが,みずからは神宗の慰留をうけて残留,汴京(べんけい)開宝寺に没した。著書「参天台五台山記」「観心論註」「法華経註」。
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…この山は,5世紀の北魏のころから《華厳経》にみえる文殊菩薩の住地たる清涼山にあたると信ぜられ,唐代になると,仏教界第一の霊地として中国ばかりでなく東アジアの全仏教界にその名を知られた。日本の僧侶も,唐代には玄昉(げんぼう)や円仁,宋代には奝然(ちようねん)や成尋などが,いずれも五台山巡礼を行っている。なかでも,〈巡礼〉ということばを書名に含んでいる円仁の《入唐求法巡礼行記(につとうぐほうじゆんれいこうき)》は,五台山仏教全盛期における大華厳寺以下の諸院を巡礼した次第をていねいに記録している。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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