デジタル大辞泉
「戸田茂睡」の意味・読み・例文・類語
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とだ‐もすい【戸田茂睡】
- 江戸前期の歌人、歌学者。名は恭光。通称は茂右衛門。梨本などと号した。駿河国(静岡県)の人。伯父戸田政次の養子となり本多家に仕えた。晩年致仕し浅草に隠棲。二条家の和歌を攻撃し旧風破壊の先駆となる。著「僻言調(ひがごとしらべ)」「梨本集」「紫の一本」など。寛永六~宝永三年(一六二九‐一七〇六)
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戸田茂睡
没年:宝永3.4.14(1706.5.25)
生年:寛永6.5.19(1629.7.9)
江戸前期の歌人。本姓渡辺,名は馮,恭光,通称茂右衛門,号梨本,不求橋など。徳川忠長の重臣渡辺忠の子として駿河(静岡県)府中で出生。幼時に主家が改易処分を受けたため父母と共に下野国(栃木県)黒羽に蟄居,恵まれた境遇は一変した。のち父方の伯父戸田政次の養子となった。三河(愛知県)岡崎藩に仕えたとされるが,正確な時期は判然としない。その経歴の不確定さと氏素姓の高貴さと相俟って,江戸時代後期において,すでに茂睡は伝説上の人物となっている。晩年は自由な身となって文芸に遊んだらしく,著述は元禄期に集中してあらわれる。歌人としてまとまった家集は残さなかったが,私撰集『鳥の跡』(1702)は江戸で出版された最初の地下選集として意義がある。また『僻言調』『梨本集』などで知られる歌論は,中世以来の伝統歌学攻撃の論調の強さで注目されたが,その批判が一面的で矛盾に満ちたものであることも認めざるを得ない。茂睡の言は,不遇をかこつ旗本達のそれと共通の基盤にあり,『御当代記』や『梨本書』にみられる士大夫としての強い現実志向が充たされないところから生じたとみるべきであって,歌論として純粋な評価の対象とはなりにくい面を有する。主著は『戸田茂睡全集』に収録される。<参考文献>佐佐木信綱『戸田茂睡論』,藤平春男「戸田茂睡の歌論」(『国文学研究』4号)
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戸田茂睡
とだもすい
(1629―1706)
江戸前期の歌学者、歌人。名は恭光(やすみつ)、通称は茂右衛門、梨本(なしのもと)などと号す。父は、徳川家光(いえみつ)の弟忠長(ただなが)の付き人となった渡辺忠。駿河(するが)国(静岡県)に生まれたが、幼時、忠長改易による父の蟄居(ちっきょ)に伴い下野(しもつけ)国(栃木県)黒羽(くろばね)に移住。20余歳で江戸に出、伯父戸田政次の養子となる。詳細は不明だが、一時岡崎本多侯に仕官したのち浪人、晩年は浅草金竜山などに隠棲(いんせい)した。宝永(ほうえい)3年4月14日没、78歳。和歌は当時の撰集(せんしゅう)などに散見するが、実作よりも歌学面にみるべきものがあり、とくに『寛文五年文詞(ふみことば)』(1665成立)、『梨本集』(1698成立)などで、堂上(どうじょう)歌学で重んじられていた歌の詞(ことば)の制限(制詞(せいのことば))の不合理性を攻撃、歌語の自由を説いたことで知られる。ほかに、和歌撰集『鳥の迹(あと)』(1702刊)、1680年(延宝8)から23年間の治世・世情の記録『御当代記』などの著書がある。
[嶋中道則]
身にかへて惜しみし家の名をだにも捨つれば捨つる世にこそありけれ
『『戸田茂睡全集』全一巻(1915/復刊・1969・国書刊行会)』
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戸田茂睡 (とだもすい)
生没年:1629-1706(寛永6-宝永3)
江戸前期の歌学者。岡崎藩本多家に出仕した武士。のち致仕し,江戸浅草の金竜山のあたりに住む。1692年(元禄5)ころから中世以来の制禁の詞(歌に使用が禁止されていた言葉)や古今伝授を非難した《百人一首雑談》《僻言調(ひがごとしらべ)》《梨本集》など,多くの著述を世に示す。元禄期にこのような言説をなしたことは歌学史上特筆されるところである。江戸名所記《紫の一本(ひともと)》,治政の記録《御当代記》その他の著がある。歌人でもある,竹内惟庸,清水谷実業の指導を受けたが,家集としてまとまった歌集はない。
執筆者:宗政 五十緒
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戸田茂睡
とだもすい
[生]寛永6(1629).5.19. 駿河
[没]宝永3(1706).4.14. 江戸
江戸時代前期の国学者,歌人。父は駿河大納言徳川忠長の付人渡辺監物忠。初名は茂右衛門馮。のち伯父政次の養子となり恭光と改名。茂睡は茂妥とも書く。別号は露寒軒,梨本,隠家,不求橋,最忍法師など。幼時,蟄居の父に従い那須に下った。のち江戸に帰り岡崎藩主本多忠国に仕えたが致仕,遁世して浅草金竜寺付近で市隠として生活した。学統は明らかではないが,歌学に造詣深く『百人一首雑談』 (1692) を著わして藤原定家や従来の説を批判し,『梨本集』 (98) では制詞を説く二条派の堂上歌学を激しく攻撃,江戸時代初期の和歌革新のさきがけをなした。ほかに歌学書『僻言調 (ひがごとしらべ) 』 (97) ,『万葉集口伝大事』,撰集『不求橋梨本隠家勧進百首』 (94) ,『鳥の跡』 (1702) ,名所記『紫の一本』 (1683) ,雑記『御当代記』 (1702以後) など。
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戸田茂睡【とだもすい】
江戸中期の国学者,歌人。初姓渡辺氏。号梨本など。駿河の人。父は駿河大納言徳川忠長の付人。江戸で本多侯に仕え,後に浅草金竜山に隠棲(いんせい)。制詞(歌に使用されてはならないとされた言葉),古今伝授など秘伝の多い中世歌学を批判,歌語の自由を主張。和歌革新の先駆者の一人。主著は《梨本集》《僻言調(ひがごとしらべ)》,江戸名所記《紫の一本(ひともと)》,治政の記録《御当代記》など。
→関連項目国学(近世)
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戸田茂睡 とだ-もすい
1629-1706 江戸時代前期の歌人,歌学者。
寛永6年5月19日生まれ。江戸で三河(愛知県)岡崎藩本多家につかえ,晩年は出家して歌作中心の生活をおくる。歌語の自由をとなえ,秘事の口伝(古今伝授)を批判,歌学の革新を主張した。宝永3年4月14日死去。78歳。駿河(するが)(静岡県)出身。本姓は渡辺。名は馮,恭光。通称は別に茂右衛門。号は梨本。著作に「梨本集」など。
【格言など】今は身にうとき人だにゆかしきは老の心の哀れはかなさ(「鳥之迹(あと)」)
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戸田茂睡
とだもすい
1629.5.19~1706.4.14
江戸前期の和学者。通称は茂右衛門,号は遺佚軒・不求橋・梨本(なしのもと)など。徳川忠長の付人渡辺忠の子として駿府城内に生まれる。下野国黒羽に過ごしたのち,江戸に出て戸田氏の養子となる。三河国岡崎藩本多家への仕官をへて,浅草や本郷に隠棲,風雅を事とした。著書は,最初の江戸地誌「紫の一本(ひともと)」,堂上歌学の因習を攻撃した「梨本集」のほか,「御当代記」「梨本書」「百人一首雑談」「鳥の跡」。
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戸田茂睡
とだもすい
1629〜1706
江戸前期の歌学者
駿河(静岡県)府中の人。江戸に住んだ。公家に伝えられた伝統的な和歌の学問が,秘事口伝 (くでん) を主とし師の説にそのまま従うことに反対して,歌学の革新を主張。下河辺長流 (しもこうべちようりゆう) や契沖 (けいちゆう) とともに,国学の先駆となった。著書に『梨本集』『百人一首雑談』など。
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戸田茂睡 (とだもすい)
生年月日:1629年5月19日
江戸時代前期;中期の歌人
1706年没
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世界大百科事典(旧版)内の戸田茂睡の言及
【歌論】より
…実質的な近世の歌論史は,こうした派閥意識に基因する閉鎖性,権威主義の否定をモティーフとして,元禄期に始発するのである。まず戸田茂睡(もすい)は古今伝授を重んじる権威主義的堂上歌学を鋭く否定した。彼の著作は多いが,70歳のときまでの〈歌論〉を大成した《梨本集(なしのもとしゆう)》がある。…
【御当代記】より
…1680年(延宝8)から1702年(元禄15)までの見聞記録。[戸田茂睡]著。5代将軍徳川綱吉の就任に筆を起こし,綱吉の性格,施政の動向,江戸市中の風俗から天変地異など,茂睡の見聞した諸事件を,批判をまじえつつ詳細に編年体で記述している。…
※「戸田茂睡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」