江戸時代の流行歌謡。三味線伴奏の流行歌謡としては,弄斎節(ろうさいぶし)に次ぐ古い成立のもの。元禄期(1688-1704)のものは墨譜,三味線譜も遺存するので,その音楽的実態がある程度類推できるし,同一旋律による同一詩型の詞章が300首以上作られているが,その詞章の収録も《松の葉》をはじめ数多い。後代には,遊里の流行歌謡の代表名称としても用いられ,また,三味線音楽各種目において,曲節名称としても用いられたが,その性格は必ずしも一定していない。
起源は,明暦・万治(1655-61)ころ,京都の島原の遊女河内が歌い出したとも,また,〈江戸弄斎〉から出たともいわれる。江戸吉原の〈継節(つぎぶし)〉,大坂新町の〈籬節(まがきぶし)〉と並んで,三都の三名物とされた。7・7・7・5・7・7・5の音数律の7句からなる詩型が標準であるとされるが,第2句の途中と,第3句のあとに,〈ナ(ア)〉,第4句のあとに〈ヤ(ン)〉という間投辞が挿入され,第5句以下は〈返し〉として第2句以下が反復されるものである。第2句,第4句のあとには,それぞれ〈間(あい)の手〉である間奏が入る。この第4句のあとの〈ヤ(ン)〉が節尻(ふしじり)を投げるような感じであることから,〈投節〉といわれたとされる。しかし,〈梛(なぎ)の葉節〉とか〈歎き節〉とかさまざまな名義の由来が考えられている。元禄期のものは,本来のものとは曲調に変化をきたしたといわれ,〈当世投節〉とも呼ばれた。三味線は,本調子によるが,後代には二上りも用いられた。
宝永・正徳期(1704-16)には衰退したといわれるが,名称は遺存して,たとえば文政(1818-30)ころには,〈そそり節〉のことを〈投節〉ともいっている。清元《神田祭》などの中の〈投節〉という曲節は,この〈そそり節〉のこととされている。河東節の《助六》(《助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)》),常磐津《関の扉(せきのと)》,長唄《吉原雀》などにおいて,廓の情趣を表すものとして用いられる曲節は,〈大津投節〉ともいわれるもので,本来のものとは異なる。
地歌《月見》《狐火》などには,元禄期の曲節が遺存することを,町田嘉章が指摘しているが,一般に地歌では,三味線が低い音域で伴奏するのに対して歌が高い音域である曲節の一つを〈ナゲブシ〉といっている。享和(1801-04)以降文政にいたるまでのものに,〈ナゲブシ〉という曲節名称の指示をもつものが頻出するが,そのすべてを通じての共通点は必ずしも認められない。
執筆者:平野 健次
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江戸時代、とくに明暦(めいれき)から宝永(ほうえい)(1655~1711)ころまで、おもに遊里で好んで歌われた「はやり歌」で、小歌の一種。歌の末尾を投げ出すように歌ったことから、投節とよばれるようになったという。本来楽器の伴奏を伴わない、いわゆる素唄(すうた)であるが、三味線の伴奏を加えて、さまざまな種目の歌曲のなかに取り入れられている。粋(いき)ななかにもどこかもの悲しげな憂いを帯びたものが多く、歌舞伎(かぶき)の下座(げざ)音楽にも取り入れられ、悲しい別離の場面や幕切れなどに用いられている。
[渡辺尚子]
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