三味線音楽の一種目。初世江戸半太夫(?-1743)が始めた曲節。貞享・元禄(1684-1704)のころに流行した。《松の葉》(1703),《若緑》(1706),《松の落葉》(1710)などによると,当時上方では,江戸を代表する浄瑠璃として,盛んに演奏されており,肥前節(江戸肥前掾),河東節とともに江戸節ともいわれた。その曲節は主として弟子の初世十寸見河東(ますみかとう)をへて河東節に伝わったが,その他の三味線音楽にも〈江戸〉または〈江戸がかり〉として,優雅で淡泊な雰囲気を出すときに使われている。半太夫節を移した曲として,河東節には《きぬた》《鑓踊(やりおどり)》《蓬萊(ほうらい)》などが,地歌の〈半太夫もの〉としては《意見曾我》などが伝わっている。なお,義太夫節でいう〈江戸〉は,勇壮で律動的であり〈土佐節〉に近いものである。
→江戸半太夫
執筆者:竹内 道敬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸浄瑠璃(じょうるり)の一流派。江戸半太夫(?―1743?)が貞享(じょうきょう)(1684~88)ごろに創始した。肥前(ひぜん)節、半太夫節、河東(かとう)節をあわせて江戸節と総称される。初世半太夫は幼名を半之丞(はんのじょう)といい、修験者(しゅげんじゃ)の子で説経祭文(さいもん)の巧者であったが、江戸肥前掾(ひぜんのじょう)に勧められてその門弟となり、肥前節に虎屋永閑(とらやえいかん)の永閑節を加味し、和らげて一流を編み出し、薩摩浄雲(さつまじょううん)以来の名手とうたわれた。元禄(げんろく)年間(1688~1704)がその最盛期で、操座(あやつりざ)をおこし、座敷浄瑠璃を主として歌舞伎(かぶき)芝居にも出演し、正徳(しょうとく)(1711~16)のころに坂本梁雲(りょううん)と改名した。上方(かみがた)でも吾妻(あづま)浄瑠璃とよばれ、永閑節、土佐(とさ)節などと並び、とりわけもてはやされて流行し、今日でも地歌に半太夫物として楽曲の一部が残されている。
なお2世は初世の二男半次郎が継いだ(長男宮内説もある)。高弟の天満屋藤十郎が、江戸太夫河東を名のった1717年(享保2)以降はその人気に押されて衰退し、半太夫の名も7世を数えたが幕末には消滅し、半太夫の語物は河東節のなかに包含されて今日まで継承されている。
[林喜代弘]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…三味線音楽の分類用語。大坂の義太夫節,京都の一中節に対していわれた言葉で,肥前節(江戸肥前掾),半太夫節,河東節をいうが,主として半太夫節を指す。それぞれの流祖が姓に〈江戸〉を用いたことにちなむが,概して優雅で淡白な味を特色とする。…
…この門人には虎屋喜元,虎屋寿徳などがあったが,寿徳は歌舞伎に出演した。丹後掾の長男の江戸肥前掾(肥前節)の弟子江戸半太夫(半太夫節),初世半太夫の弟子十寸見(ますみ)河東(河東節)などの浄瑠璃は劇場音楽からむしろ江戸通人の粋なお座敷音楽化した。肥前節,半太夫節,河東節を江戸節と総称する。…
…本名を伊藤藤十郎と伝える。江戸日本橋魚商の子で初世江戸半太夫の門に入り,半太夫節に手品節,式部節などを加えて1717年(享保2)春,江戸市村座で《松の内》を語って一派を樹立した。高弟に河丈(2世河東,?‐1734),河洲(3世河東,?‐1745)があり,初世山彦源四郎と河東節を完成させた。…
※「半太夫節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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