近世初期歌謡の一つ。三味線を伴奏とするようになった流行歌謡の中で,〈細り〉〈片撥(かたばち)〉とともに,現在その詞章を明らかにしうる最古のものの一つ。寛永(1624-44)ころから,京の六条・島原の遊里で行われ,次いで江戸でも〈江戸弄斎〉と呼ばれて流行した。この江戸弄斎から〈投節(なげぶし)〉が生まれたともいわれる。〈雲井のろうさい〉といわれるものは,京六条の遊女の雲井が流行させたものともいわれる。元禄(1688-1704)期にはすたれたが,芸術歌曲にとり入れられ,箏曲の《雲井弄斎》(八橋検校作曲),《新雲井弄斎》(倉橋検校作曲),《島原弄斎》(継山流秘曲。ただし《島原》《朗催》という異なる2曲ともいう)などが作られ,いずれも組歌の付物として伝承された。また,三味線歌曲では,組歌唯一の二上り曲《弄斎》が作られ,柳川流では後に《新弄斎》も作られている。そのほか,長歌物の《雲井弄斎》(《歌弄斎》とも。佐山検校作曲。片撥の奏法による二上り曲の嚆矢(こうし)ともいう)もある。歌体が,七七七五調のいわゆる近世小歌調の基本的音数律を標準詩型とするとされるが,芸術歌曲化されたものは,必ずしもその音数律にしたがわず,反復や間投辞の挿入などもある。代表的な詞章は,〈山の端に住めば浮世に思ひのますに月と入ろやれ山の端に〉(三味線組歌《弄斎》第1歌に初句を除いてとられる),〈はなればなれのあの雲見れば明日の別れもあの如く〉(前記に続けて縮約したものが箏組歌《雲井弄斎》第1歌),〈我ふりすてて一声ばかりいづくへゆくぞ山ほととぎす〉(箏組歌《島原弄斎》第1歌,長歌《雲井弄斎》後歌,西鶴《好色一代男》に京島原の弄斎として引かれる)など。
〈ろうさい〉の名義の由来は,諸説あって定まらず,表記もさまざまあった。なお,四国,九州などに遺存する民謡の〈よいやな節〉は,伊予の水軍来島(くるしま)一族が,慶長(1596-1615)ころに,弄斎節を船歌としたものが,藩主森家の移動に伴って,伊予と豊後に分かれて伝わったものであるといわれるが,慶長期に弄斎節が実在したかどうかは不明。
執筆者:平野 健次
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江戸時代初期の流行歌謡。癆瘵、朗細、籠済などとも記す。隆達節に続いて寛永(かんえい)(1624~44)ごろに京都で流行し、その後江戸でも流行して「江戸弄斎」とよばれた。語源については、癆瘵(ろうさい)という病気にかかった人のように曲調が陰気であったため(嬉遊笑覧(きゆうしょうらん))とか、朗らかな声で節細かく歌うため(異本洞房(どうぼう)語園)とか、籠済(ろうさい)という浮かれ坊主が始めたため(昔々物語)など諸説があるが、いずれもさだかではない。元禄(げんろく)期(1688~1704)にはまったく廃れているので、曲節は現存しないが、詞章は江戸時代の歌本類のなかに相当数散見できる。詞型の多くは七七七五調の近世小歌調を基本としており、三味線にあわせて歌ったものと思われる。八橋検校(やつはしけんぎょう)の箏(そう)曲『雲井弄斎』や佐山検校の同名の長歌(ながうた)物など、芸術音楽にも取り入れられているが、曲節の関係については不明である。
[千葉潤之介]
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