交換取引で無理強いに不当な値段で買うこと,押売・押買と併称される場合も多い。古代律令法では強市といわれるものが,これに当たる。鎌倉幕府法では,1240年(仁治1),鎌倉中保々奉行の存知すべき条々の一つに,押買事が出ているのを最初として,42年,53年(建長5),54年,84年(弘安7)と数度にわたって取締りの対象となっている。これは権力を笠にきての武士階級の横暴と,等価交換を望む商工業者との矛盾の結節点として,商品経済が発達した鎌倉末期から,中世後期にかけて,法令に多くあらわれるようになる。1271年(文永8),高野山領紀伊国神野真国猿川3ヵ荘の荘官が,神野市場での抑買(押買)を禁止することを起請文で誓っている。関東の宇都宮氏は,83年に制定した家法では,一門や家臣に市々での押買を強く禁じている。
室町幕府も,1445年(文安2),喧嘩口論とならんで押買狼藉を停止している。戦国大名の分国法にも,《結城氏新法度》では,押買以下の乱暴をして討たれたものについては,是非もない旨を令している。1495年(明応4)の《大内氏掟書》では,押買狼藉の禁とならんで,公方買,守護買が禁止されていることから,それが類似のものとみられていたことがわかる。押売・押買とならんで規定されている場合もあるが,押買のみが規定されている場合が多いことから見て,強権をもって上から買い取る場合が,圧倒的に多かったといえよう。
《日葡辞書》には,〈無理に売り手の意志に反して物を買い取ること〉とある。これを制禁することは,売り手の保護であるから,中世後期に簇生してくる在地の市場法には,必ずといっていいほど,この条項が見られた。市場法のもっとも典型的なものとしてあげられるのは,《武家名目抄》の1510年(永正7)のもので,〈押買狼藉の事〉が,国質所質,喧嘩口論の制禁とならんでいる。そのあとに〈在々所々市町の掟大概かくのごとし〉とされているから,この三つが,市場の秩序維持についての根本的なものであったことがわかる。しかもそれが当時にあって,守られがたかった事情も推しはかられる。
したがって,後北条氏治下の武蔵・相模の諸市場,今川氏の富士大宮市,徳川家康の三河国小山新市に対する公方人押買の停止,織田信長の近江国金森や加納の楽市場への規定など,大部分の市場法にあらわれている。しかもそれが,楽市を令した市場法に併記される場合が多いことも特色である。都市法というべき,織豊政権の城下町の建設にあたっての定書にも必ず規定されている。信長の安土山下町,蒲生氏郷の日野・松坂,豊臣秀次・京極高次の八幡町,浅野長吉の坂本などである。近世に入っても,押売押買はまだ行われたようで,1716年(享保1)の幕府法令に〈おし売おし買之儀前々より御制禁之処〉とあり,禁制が出ていたことがわかる。
→市
執筆者:脇田 晴子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
公方買(くぼうがい)とも。買手が売手の意思に反して,威力で財物などを買いとる行為。対語が押売。1242年(仁治3)1月15日の鎌倉幕府追加法では町での押買が,また「宇都宮家式条」では市での押買が禁止され,室町・戦国期の市の制札にも頻出。売買の平和領域である町・市では禁止された行為だったが,中世~近世初期に広く行われていたとみられる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…その場所の多くは,下町ともいうべき海寄りの地域であるが,山寄りの地域でも大倉辻など道路の交差点や,化粧坂上など境界部は,商業地域に指定されている。幕府は市場以外で商人から直接に安く買いたたく“迎買(むかえがい)”や,市価より安く強引に買い取る“押買(おしかい)”を取り締まる一方,商人の暴利を規制する物価統制令や高利貸の利息の制限令も出し,発展しつつある商業・金融業を統制しようとつとめていた。しかしどこまで実効をあげたかは疑問である。…
※「押買」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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