中国,西周王朝の創始者。生没年不詳。名は姫昌(きしよう)。陝西盆地の周族は文王の時代,なお殷王朝の支配下にあったが,太顚(たいてん),閎夭(こうよう),散宜生(さんぎせい)らの賢臣の補佐もあって実力を蓄え,文王は中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。しかし周族の勢力の伸長は殷の紂王(ちゆうおう)の警戒心を呼びおこし,文王は羑里(ゆうり)にとらわれることになる。この捕囚の間に文王は《易》の六十四卦を整備したという。釈放のあとも文王は徳治によって近隣の諸国を懐(なつ)け,また都を豊(西安市西部)に移した。その子の武王はこうした基礎の上に殷王朝打倒の兵を挙げ,西周王朝を開くことになる。西周時期の金文資料でもすでに文王と武王とは一対をなす王朝の創始者とされており,文王が天帝より中国を支配すべき天命を受けたのに対し,武王は実際の軍事行動によって天下の支配を確立したのであるとされる。文王は死後,天帝のもとで神になっているとされるが,そうした文王の宗教的な様相は《詩経》大雅の諸篇に詳しい。後世にも,周文化の基礎を定めた聖人・聖王として〈文武〉と併称される。
執筆者:小南 一郎
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紀元前12~前11世紀ごろの人。中国古代の聖王。周の王、季歴(きれき)(王季)の子。武王の父。名は昌(しょう)。周は古公亶父(たんぽ)、季歴のころ陝西(せんせい)省岐山の付近から発展し、文王の時代には犬戎(けんじゅう)、密須(みっしゅ)、邘(う)、崇(すう)などの部族を征し、西伯(せいはく)とよばれるに至った。文王は陝西省西安付近に新都豊邑(ほうゆう)を営み、諸侯を従えて殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を討とうとしたが、果たさなかったという。文王は徳をもって万民を治め、諸侯もこれを慕い、隣国の虞(ぐ)、芮(ぜい)の争いを止めたとか、あるいは紂王に羑里(ゆうり)に捕らわれたとき、諸侯みなこれに従ったなどの伝説がある。「詩」「書」や青銅器銘文にも文王、武王の創業の功をたたえるものが多い。
[宇都木章]
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生没年不詳
周の武王の父。有徳者と伝わる。民生に努め,周の国土を広げ,諸侯の信頼を得,周都を岐山(きざん)から豊邑(ほうゆう)に移し,武王の周王朝開始の基礎を築いた。殷(いん)末の周の興隆はすべて文王伝説に語られている。
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…中国,春秋戦国時代の楚の都。文王(在位,前689‐前677)が現在の湖北省江陵県の北にはじめて郢の都をおいたといわれる。春秋の末に呉の侵入に備えて鄀(じやく)(湖北省宜城県北東)に遷都した一時期を除き戦国までつづく。…
…子の王季は殷第28代の文丁から西の方伯(西方の実力者)と認められたが,のち文丁に殺されたと伝えられる。 次の文王のとき,しだいに力を東に伸ばし,河南西部までその影響下に収め,都を周原から鄷(ほう)(西安市西)にうつし,王朝の基礎を築く。子の武王は都をさらに東の鎬(こう)(西安市西郊)にうつすとともに,東進に努め,前1050年ころ殷を滅ぼして王朝を建てた。…
…松浦静山《甲子夜話》に上下2対の乳房をもつ男女の話がある。《五雑俎》によれば,周の文王も四つの乳の持主だった。中世のヨーロッパでは副乳はまごうかたなき魔女の特徴とされた。…
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