新府城跡(読み)しんぷじようあと

日本歴史地名大系 「新府城跡」の解説

新府城跡
しんぷじようあと

[現在地名]韮崎市中田町中条・藤井町駒井

釜無川左岸に連綿と続く七里岩しちりいわ台地の西縁、中田町中条なかだまちなかじようの西部にあるじよう山に築かれた戦国期の城跡で、東西約四〇〇メートル、南北約七〇〇メートルの広さをもち、南方の一部藤井町駒井ふじいまちこまいにかかる。比高七二メートルの小円頂丘を利用してつくられており、標高は五二一メートル。七里岩台地下からは一二六メートルの高さがあり、屹立した様はまさに天険の地とよぶにふさわしい景観を呈している。天正九年(一五八一)武田勝頼によって築かれた。史料上は韮崎の新城などとも記される。

天正三年長篠の戦の敗戦以後、武田勝頼は退勢挽回のため近隣諸国との関係修復に尽力し、年来の敵上杉氏との同盟を果す。しかしそれは逆に北条氏政との甲相同盟の破綻を引起し、関東・東海を制覇する北条氏・徳川家康、さらには甲州・信州侵攻を狙う織田信長といった強敵たちと直接に立向かわなければならなくなった。勝頼は甲斐国の防衛態勢を強化すべく、躑躅が崎つつじがさき(現甲府市)の守備固めのために要害ようがい(現同上)を修築したりする一方で、新たに侵入してくる敵を迎え撃つことのできる規模・構造をもった城を早急に築くことを決意するに至る。天正九年、新城建設地を七里岩台地上の当地に定め二月に着工した。普請奉行には真田昌幸を任じ、家一〇間につき一人の人足を三〇日間徴発し、その食料は軍役衆が出し、別に水役人夫が徴発された(正月二二日「真田昌幸書状写」長国寺殿御事蹟稿など)。築城工事は昼夜の区別なく行われ、勝頼は工事責任者であった原隼人佑貞胤や浦野孫六郎に慰労督励の書状を送っている(三月六日「武田勝頼書状」禰津晴雄氏所蔵文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「新府城跡」の解説

しんぷじょうあと【新府城跡】


山梨県韮崎(にらさき)市中田町にある平山城跡八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流が、釜無川と塩川の浸食によって形成された七里岩の台地上に所在する。台地西側の断崖絶壁は韮崎から長野県蔦木まで約30km続き、南端の標高約524mの小山に築かれた城の西側は、釜無川を望む急崖になっている。城は石垣をほとんど用いず土の切り盛りによって造成され、本曲輪(ほんぐるわ)(本丸)・二の曲輪(二の丸)・東の三の曲輪(三の丸)・西の三の曲輪(三の丸)などが配され、北から東にかけての山裾には堀と土塁で防御された帯曲輪がめぐり、南端には丸馬出し・三日月堀・大手枡形などがある。城の北西隅に設けられた乾(いぬい)門は、西側が七里岩の崖、東側が水堀で、この間を土橋で渡る構造になっている。大手と同様、内側が大きく、外側が小さい土塁に囲まれたやや変則的な枡形虎口で、枡形内部は東西約13m、南北約12mの広さがある。1575年(天正3)の長篠・設楽(したら)原の戦いで大敗した武田勝頼は、穴山梅雪の進言で甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)から、より防御性の高い七里岩の断崖上に新城を築くことを決め、1581年(天正9)に築城が始められ、年末には躑躅ヶ崎館から普請なかばの新府城に移った。翌1582年(天正10)、勝頼は信濃での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが阻まれ、織田・徳川連合軍が逆に甲斐国へ進軍、勝頼は自ら新府城に火を放って岩殿城へ落ち延びようとしたが、謀反にあって追い詰められ、天目山近くで夫人と息子信勝とともに自害し、武田氏は滅亡した。本能寺の変の後、徳川氏と北条氏による甲斐国争奪をめぐる戦いがおこり、徳川家康は新府城を本陣として利用したが、1590年(天正18)ごろには廃城となった。現在、本丸跡には藤武神社が建っている。武田氏最後の居城であったが、領国支配の中心として築かれ、戦国時代末期の様子を伝える遺構として貴重である。1973年(昭和48)に国の史跡に指定された。JR中央本線新府駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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