新自由クラブ(読み)シンジユウクラブ

デジタル大辞泉 「新自由クラブ」の意味・読み・例文・類語

しんじゆう‐クラブ〔シンジイウ‐〕【新自由クラブ】

昭和51年(1976)自由民主党を離党した河野洋平ら6名の国会議員が結成した政党自民党に抗する保守二大政党の一翼を目ざしたが、自民党への復党者が絶えなかった。同58年に自民党との連立政権参加。同61年解党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新自由クラブ」の意味・わかりやすい解説

新自由クラブ
しんじゆうクラブ

日本の政党。1976年6月25日,自由民主党を離党した衆議院参議院の 6議員で結成。代表河野洋平,幹事長西岡武夫発足ロッキード事件を通じて露呈された自民党の古い体質と老朽化に絶望し,新たな保守政治の創造を目指すと主張,同 1976年7月21日政策綱領にあたる「われわれの基本理念──新しい自由社会を創るために──」を発表した。教育立国,地方分権などを掲げたが,自民党との相違点は,理念,政策など必ずしも明確でなかった。結成直後の 1976年12月の衆議院議員総選挙では,一種のブームを現出し一躍 17議席を得たが,1977年7月の参議院議員通常選挙では,予想を下回り 3議席にとどまった。1978年2月に初の全国大会を開いたが,党勢,路線ともにその前途は未知数であった。1979年10月の総選挙では 4議席にとどまり,選挙後河野は責任をとり代表を辞任した。翌 1980年6月の衆参同時選挙では,革新野党の内部対立にも助けられ,衆議院では 12議席を得たが,その後も党勢はふるわず,1983年12月総選挙では 8議席となり,衆議院で統一会派自由民主党・新自由国民連合を組んだ。1986年7月の総選挙で 6議席となり,河野をはじめ党員の大半が自民党に復党。同 1986年8月15日に解党し,統一会派も解消した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新自由クラブ」の意味・わかりやすい解説

新自由クラブ
しんじゆうくらぶ

1976年(昭和51)6月、三木内閣のもとでロッキード事件が明るみになり、自由民主党内の派閥抗争が激化していた時期に、河野(こうの)洋平、田川誠一山口敏夫(としお)、西岡武夫(たけお)ら6名の国会議員が「自民党に絶望」して「新しい保守」を目ざし結成した都市型保守政党。同年末の総選挙では「きれいな保守」を掲げてブームをよび、一躍18議席を獲得したが、その後は低迷し、社会民主連合と院内統一会派をつくったり、83年第二次中曽根(なかそね)内閣から自民党と統一会派をつくり閣僚1名を送り込んだりしたが、結党時に掲げた「保守二党制」の目標にはほど遠く、自民党への復党者が絶えなかった。(1)政治倫理確立、(2)新自由主義、(3)民意伸張、を綱領に掲げ、若手財界人や都市管理者層を支持基盤とし、都市サラリーマン層や商店主などにも支持を広げようとしたが、86年7月の衆参同日選挙でも敗退、自民党の超安定多数の前に統一会派としての機能も失われ、同年8月、解党、自民党への復党を決定した。

[加藤哲郎]

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百科事典マイペディア 「新自由クラブ」の意味・わかりやすい解説

新自由クラブ【しんじゆうクラブ】

自由民主党を離党した河野洋平らによって1976年7月に結成された政党。〈新自由主義〉を標榜(ひょうぼう)し,新保守中道路線をとった。1983年総選挙後,自由民主党と連立内閣を形成したが,1986年総選挙で惨敗,同年8月解党した。
→関連項目宇都宮徳馬中曾根康弘内閣

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新自由クラブ」の解説

新自由クラブ
しんじゆうクラブ

自由民主党からの離党グループにより結成された保守新党。1976年(昭和51)のロッキード事件発覚を契機に,自民党の河野洋平ら6議員が6月に結党。同年12月の総選挙で大都市の浮動票を集め,17人を当選させブームとなったが,以後は自民党と中道政党の間で動揺を続け,86年8月に解党して自民党に復帰。この間,83年以降自民党と連立して中曾根康弘内閣を支えた。

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