日向薬師(読み)ひなたやくし

日本歴史地名大系 「日向薬師」の解説

日向薬師
ひなたやくし

[現在地名]伊勢原市日向

伊勢原市北部を東流する日向川の左岸に南面する尾根中腹にある。正式には宝城ほうじよう坊。高野山真言宗本尊は薬師三尊像。もと日向山霊山りようせん寺。古来、日向薬師と称され、薬師信仰の対象として有名である。

開基行基と伝え、「吾妻鏡」建久五年(一一九四)八月八日条に、将軍源頼朝が「参相模国日向山給、是行基菩薩建立薬師如来霊場也」とあり、暦応三年(一三四〇)一二月一五日付の鐘銘(県史通史編一)にも「相州日向霊山寺行基菩薩霊亀二年大歳丙辰二月八日草創」とある。また持統天皇一三年に役行者八菅はすげ(現愛甲郡愛川町)に来山した際、一〇〇体の薬師を彫り、空中に投げたのが当地に落下したという伝説がある。万寿元年(一〇二四)頃相模国司として赴任した大江公資の妻、歌人相模は「はるかなるほとりにありし折、めにわすらふことありて、ひなたといふ寺にこもりて、薬師経なとよませしついてに、いてし日、はしらにかきつけし」として「さしてこしひなたの山を頼むにはめも明かにみえさらめやは」と詠んでいる(相模集)

「吾妻鏡」によれば建久三年八月九日条の北条政子の実朝出産時の安産祈願のため誦経を行った寺のなかに「霊山日向」がみえる。同五年八月八日条には頼朝が「於当国効験無双」という理由で「日向山」に参詣したとあり、同一八日条によれば長女大姫の不例祈願のためであった。また同年一〇月一八日条には頼朝の歯痛平癒のため、足利義兼を「日向薬師堂」に遣わしたとあり、承元四年(一二一〇)六月八日・建暦元年(一二一一)七月八日条にも、政子が弟の時房や実朝の妻らと「日向薬師堂」に参詣した記事がみえる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日向薬師」の意味・わかりやすい解説

日向薬師
ひなたやくし

神奈川県伊勢原(いせはら)市日向にある高野山真言(こうやさんしんごん)宗の寺。正称は宝城坊(ほうじょうぼう)。716年(霊亀2)行基(ぎょうき)の開創と伝えられる日向山霊山(りょうせん)寺の12坊の一つで、明治維新後、宝城坊だけが残って霊山寺の跡を継いだ。古くから、米山(よねやま)薬師(新潟県上越(じょうえつ)市柿崎(かきざき)区)、芝折(しばおり)薬師(高知県長岡郡大豊(おおとよ)町。豊楽(ぶらく)寺)とともに、日本三薬師として信仰を集め、鎌倉時代には源頼朝(よりとも)、その夫人政子(まさこ)が数回参拝している。本堂(薬師堂)は足利義満(あしかがよしみつ)の修造といい、堂内に安置する本尊の薬師三尊像は行基作と伝える秘仏で、鉈(なた)彫りの代表的作品として国重要文化財に指定されている。

[勝又俊教]

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百科事典マイペディア 「日向薬師」の意味・わかりやすい解説

日向薬師【ひなたやくし】

宝城坊

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日向薬師」の意味・わかりやすい解説

日向薬師
ひなたやくし

宝城坊」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の日向薬師の言及

【伊勢原[市]】より

…道灌は1486年(文明18)ここで殺されたという。大山の東方に日向薬師(日向山霊山寺)があり,重要文化財の薬師三尊を安置する。農産物はナシ,ブドウなどを主とするが,小田急線で東京新宿まで約1時間の位置にあるため都市化が急速に進み,工業団地・住宅団地が生まれている。…

※「日向薬師」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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