日向村(読み)ひなたむら

日本歴史地名大系 「日向村」の解説

日向村
ひなたむら

[現在地名]栗山村日向

日蔭ひかげ村の北、明神みようじんヶ岳(一五九四・五メートル)葛老かつろう山の南に位置し、南部を鬼怒川が東流する。同川段丘上には小指おさし戸中とちゆう野尻のじり小穴こあな大王だいおうたけうえまつ木平きだいらなどの小集落が点在する。地名は日蔭村に比較して日照時間が多いため、日蔭に対し日向とよばれるようになったといわれる。近世はおおむね日光領。寛文六年(一六六六)日光領総検地により、畑・屋敷のみ反別四二町七反余、高一一三石余が確定(「検地帳」八木沢スミエ文書)、以後の高は変わらない。年貢は定免金納で、近世期を通して一二両三分余。またいつの頃からか不明であるが、日光山本坊御殿役所から栗山七ヵ村名主に宛てられた覚(百目鬼彦四郎文書)によれば、年々、本坊御殿へ蕎麦一石八升を上納している。栗山郷一〇ヵ村の一つとして、川俣かわまた村などと同様に加助郷や人足出しを勤めている。


日向村
ひなたむら

[現在地名]伊勢原市日向

大山の東丘陵にあり、標高約一一三〇メートルの分水嶺に発源する日向川が中央を西から東へ、渋田しぶた川が南境を流れる。北は愛甲あいこう七沢ななさわ(現厚木市)、東は同郡小野おの(現同市)西富岡にしとみおか村、西は上子安かみこやす村、南は上糟屋かみかすや村に接する。薬師やくし道・津久井つくい道が通る。

「風土記稿」では「和名抄」の大住おおすみ日田ひひた郷に比定されるが不詳。また村名は薬師堂(通称日向薬師)の境内を日向山とよんだことに由来し、古くは村全体が薬師堂領であったと伝えるとする。「相模集」に「ひなた」の地名がみえる。「吾妻鏡」建久三年(一一九二)八月九日条によれば、北条政子の実朝出産の際、安産祈願のため誦経を行った寺のなかに「霊山寺日向」がみえる。


日向村
ひなたむら

[現在地名]田辺市上芳養かみはや

芳養川流域、小野おの村の北東に位置する。西は日高郡東本庄ひがしほんじよう(現南部川村)などに接する。芳養川が村内を蛇行しながらほぼ西流する。中世は芳養庄に含まれた。慶長六年(一六〇一)の浅野左衛門佐殿知行持高写(「万代記」所収)によると村高三一六石余。うち田地高六割五分(宝暦八年写「慶長六年 上芳粮御検地帳 上村之内日向村」田辺市立図書館保管)。安政六年(一八五九)の家数人数牛馬数書上帳(田所文書)によると家数七八、うち役家一五・柄在家(無役家)六三。


日向村
ひなたむら

[現在地名]妻沼町日向

利根川右岸の自然堤防上に位置し、東はふく川を境に埼玉郡北河原きたがわら(現行田市)、南は同郡上中条かみちゆうじよう(現熊谷市)、西は上須戸かみすど村。なお現在の福川は北側を東流する。天正一九年(一五九一)三月、おし(現行田市)の松平家忠は「ひなた村之内」で一千一一〇石余を預けられている(「伊奈忠次忍領預地書立」長崎県片山家文書)。慶長三年(一五九八)一月には、忍城主松平忠吉の付家老小笠原吉次が徳川氏から須賀すか(現行田市)と日向郷の内で一〇〇石を宛行われた(小笠原吉次知行宛行奉書「安得虎子」東京大学史料編纂所蔵)


日向村
ひなたむら

[現在地名]修善寺町日向

田方郡に属し、狩野かの川東岸にある村で、北は加殿かどの村、南は佐野さの(現天城湯ヶ島町)。対岸は本立野ほんだちの村・大平おおだいら村。北条氏所領役帳に松山衆狩野介の所領として一三八貫九〇〇文「豆州狩野日向郷」とみえ、旧来は狩野庄に含まれた。領主の狩野介は狩野氏の嫡流とみられ、北条氏の伊豆進出後に家臣になったと考えられる。日向郷は狩野介の所領の筆頭に記載されていることから本拠地であったとみられる。文禄三年(一五九四)検地帳に「宝郡日向郷」とあったという(増訂豆州志稿)。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」によると高四六八石余、元禄初年高帳では新田高三石余。領主の変遷は加殿村に同じ。


日向村
ひなたむら

[現在地名]足利市瑞穂野町みずほのちよう

矢場やば川北岸の平地に位置し、対岸は上野国邑楽おうら木戸きど村・日向ひなた(現群馬県館林市)、北は野田のだ村。慶安郷帳に「日名田村」とみえ、旗本天野・渡辺の二給、元禄郷帳では旗本久留島・山内の二給。安永九年(一七八〇)山内氏が土佐高知藩から一万石を分与されて大名に列し、土佐高知新田藩領と旗本久留島領の二給となり、幕末に至る。慶安郷帳では田高七七石余・畑高二四八石余。天保年間(一八三〇―四四)の家数七五(改革組合村)


日向村
ひなたむら

[現在地名]館林市日向町

北を矢場やば川が東へ流れ、南西の多々良たたら沼から流れ出た多々良川が合流する。東は木戸きど村・高根たかね村、西はうずら(現邑楽郡邑楽町)、北は矢場川を隔て下野国梁田やなだ郡下日向村(現栃木県足利市)。寛文元年(一六六一)領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に日向村とみえる。宝永年間(一七〇四―一一)頃の記録と推定される日向村実記(滝野瀬家旧蔵)には天正一九年(一五九一)二月榊原康政の検地を受け、家数三六軒とある。寛文郷帳では田方二五四石一斗余・畑方一六五石一斗余、館林藩領。


日向村
ひゆうがむら

[現在地名]鶴来町日向町

手取川扇状地の扇頂部中央に位置し、北西流する中村なかむら用水を挟み、南西は明法島みようほうじま村。「白山宮荘厳講中記録」建長六年(一二五四)条に「日向社」とみえ、加賀国主源通成が八田やた(現小松市)山下やました郷を地頭時光請所としたため、一月一〇日に加賀国庁に白山本宮神輿振が行われ、前日神輿が同社に逗留している。正保郷帳に村名がみえ高九八二石余、田方六一町四反余・畑方四町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一千九四石、免五ツ七歩(三箇国高物成帳)


日向村
ひなたむら

[現在地名]度会町日向

一之瀬いちのせ川右岸段丘上にある。南は同段丘続きの火打石ひうちいし村、北は一之瀬川の湾曲部、東は山地、西は左岸の小川郷内どうと対する。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「小川郷内日名田村」と記され、岩出いわで(現玉城町)城主稲葉氏領。村高一〇〇石六斗余、反別は水田一町二反余・畑七町七反余。戸口三一戸・一一三人。嘉永三年(一八五〇)六月完成の沖田おきたの水路は、火打石地内の一之瀬川支流彦山ひこやま川に井堰を設ける流長二六丁の用水。


日向村
ひなたむら

[現在地名]静岡市日向

藁科わらしな川上流に位置し、南は栃沢とちざわ村。国立史料館本元禄郷帳に幕府領と紀伊和歌山藩士丹羽・渥美二家の相給とみえる。正徳三年(一七一三)駿府城番となった成瀬正起領(旗本成瀬領)が加わる(「寛政重修諸家譜」など)。元禄郷帳では高一六二石余。旧高旧領取調帳では幕府領一〇四石余、成瀬領二七石余、丹羽・渥美領三〇石余。「駿河記」では家数七六。椎茸栽培については、一八世紀半ば伊豆国賀茂かも郡の人が字能又よきまたの山中に栽培したのを嚆矢とするという(大川村誌)


日向村
ひなたむら

[現在地名]浦川原村日向

西流する保倉ほくら川右岸の氾濫原東頸城丘陵の接点の山麓にあり、西は印内いんない村、東は六日町むいかまち村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「直峯分ひなた村 上」とあり、本納一一石三斗六升・縄高二〇石八升四合、家二軒・九人。正保国絵図では高三〇石余。天和三年郷帳では高四〇石四斗余、うち山高一石四斗二升五合・漆高七斗五升。蓮浄寺本には青苧高一石二斗六升とある。


日向村
ひなだむら

[現在地名]但東町日向

西野々にしのの村の南、東里とうりヶ岳の北麓、太田おおた川の左岸にある。近世の領主の変遷は三原みはら村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に「ひなだ」とみえ、高九二石余。宝永二年(一七〇五)の名寄帳(太田家文書)、宝暦二年(一七五二)の倉見領分高附帳(岡田家文書)でも同高。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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