1939年(昭和14)、前年に成立した電力管理法および日本発送電株式会社法に基づき設立された。日中戦争下の戦時体制への傾斜を背景に、電力需給の国家的統制を目的として電源開発の独占権を与えられた。強い反対運動にもかかわらず、東京電燈(でんとう)以下の33の電気事業者は発送電設備を強制出資させられた。ついで1941年には配電統制令が施行され、翌42年、関東配電以下の9配電会社が誕生して、電気事業はほぼ完全に国家管理下に置かれた。第二次世界大戦後、日本発送電および9配電会社は過度経済力集中排除法の適用を受け(1948)、電気事業の「民主化」が図られた。1950年(昭和25)にはポツダム政令により電気事業再編成令が公布され、翌51年5月、東京電力以下の民間9電力会社の設立をみて、日本発送電と9配電会社はともに解散した。最終資本金は30億円。発送電設備は民間9電力会社に継承された。
[橘川武郎]
『日本発送電解散記念事業委員会編・刊『日本発送電社史、綜合編・技術編・業務編』(1954~55)』▽『橘川武郎著『日本電力業の発展と松永安左ヱ門』(1985・名古屋大学出版会)』
1938年1月成立の〈日本発送電株式会社法〉に基づいて39年4月に設立された民有国営企業(特殊会社)。略称の日発(につぱつ)で呼ばれることも多い。電力管理法のもと,いわゆる電力国家管理を実際に推進する中核体であった。当初は全国火力発電設備の60%,送電線の40%を掌握したにすぎなかったが,41-42年には東京電灯以下33の事業者から主要水力発電設備の強制出資を受けて全発電能力の80%を掌握した。370余の小売電力会社も,41年に9配電会社に整理統合された。電力会社等の反対を革新官僚が押し切る形で設立された日発の課題は,〈高度国防国家〉建設のための豊富かつ低廉な電力供給であった。戦時期には,一方で消費規制を導入して電灯需要等を抑えて軍需工業に重点的な配電を行い,他方で政府の補給金支給を受けてコスト割れの低電力料金政策を実施した。日発を軸とする全国均一低料金政策は産業界から高く評価される面もあったが,敗戦後,GHQは過度経済力集中排除政策の一環として同社の解体を推進し,電気事業再編成令で同社は,51年5月には現在の9電力会社設立のうえ,9配電会社とともに解体された。
→電気事業
執筆者:橋本 寿朗
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…また,32年には電力連盟というカルテル組織が結成されたのである。 32‐37年に発電力は約190万kW増加したが,戦時経済に対応したより一層の生産力拡充のため,発電力の急増と低電力料金政策が要請されるに及んで,38年4月には電力管理法が公布され,39年4月電力会社の発電・送電設備の現物出資による日本発送電が発足し,電力国家管理へと移行した。一方,配電も41年の配電統制令に基づき,42年全国に9社の配電会社が設立された。…
…その後,31年に同法が改正され,電気事業に卸電気事業が加えられ,料金は認可制となり,供給義務,供給地点における電圧・周波数の保持義務が法定された。 満州事変から日華事変へと経済が戦時体制化するにともなって,電力の国家管理の要請が強まり,1938年に,電力管理法,日本発送電株式会社法,電力管理に伴う社債処理に関する法律,電気事業法の一部改正が成立した結果,政府が発電・送電を管理下におき,その大部分を日本発送電株式会社に行わせ,かつ政府が同社を監督し,設備計画,電気料金その他電力供給に関する重要事項の決定権を持つ,電力の国家管理体制が実現した。第2次大戦の敗戦で形式的には戦時体制下の法律命令がすべて変更を余儀なくされたが,電気事業に関しては,実質的には51年の公益事業令まで戦前の体制が維持された。…
…私営電力会社としても世界最大の規模をもつ。1951年,電気事業再編成令に基づき,関東配電(株)の設備と日本発送電(株)の設備の一部を引き継いで,発電,送電,配電を一貫して経営する電力会社として発足した。東電の前身は,1883年設立の日本最初の電力会社有限責任東京電灯会社である。…
※「日本発送電」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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