張騫(読み)チョウケン(英語表記)Zhāng Qiān

デジタル大辞泉 「張騫」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐けん〔チヤウ‐〕【張騫】

[?~前114]中国、前漢外交家。成固(陝西せんせい省)の人。あざなは子文。匈奴きょうど挟撃のため武帝の命で大月氏だいげっしに派遣され、途中匈奴に捕らえられたが脱出して大月氏へ到着。同盟が成功しなかったので、帰国途中で再び匈奴の捕虜となり、13年目に帰国。その後イリ地域の烏孫うそんにも派遣され、東西文化交易の発展に大きな役割を果たした。

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精選版 日本国語大辞典 「張騫」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐けんチャウ‥【張騫】

  1. 中国、前漢の外交家。武帝の時、匈奴を牽制するため大月氏と同盟を結ぼうと出発。同盟は不成立だったが、大宛、大月氏、大夏などをまわり、のちに烏孫にも使して、西域への交通路知識を中国にもたらした。また、その間、匈奴征伐に従って功をたて、博望侯に封ぜられた。前一一四年没。

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改訂新版 世界大百科事典 「張騫」の意味・わかりやすい解説

張騫 (ちょうけん)
Zhāng Qiān
生没年:?-前114

中国,前漢の西域開拓者。漢中の成固(陝西省城固県)の人。武帝の建元年間(前140ころ)に郎となった。ときに武帝は,匈奴の仇敵月氏の存在を聞き,匈奴挟撃の同盟を結ぶために張騫を使者として派遣した(前139ころ)。彼は途中匈奴に捕らえられ,10年余り拘留されたが初志をまげずに脱出し,大宛,康居を経て嬀水(アム・ダリヤ川)北に本拠をおく大月氏国に到着した。しかし大月氏は,肥沃で外敵の少ない地に安住しており,匈奴と戦う意志はなかった。彼は1年余り滞在ののち,西域南道から羌(きよう)(チベット系遊牧民)の居住地域を経て帰国しようとして再び匈奴に捕らえられたが,今度も単于(ぜんう)の死に乗じて脱出に成功し,前126年,13年ぶりに帰国した。彼の目的は果たされなかったが,漢と西域諸国のそれぞれに情報をもたらし,東西の交通を開いた意義は大きい。のち彼は衛青に従って匈奴を討ち,功によって博望侯に封ぜられ,また,西域経営に着手した武帝によって烏孫へ派遣されるなどして功績があり,大行(たいこう)(来朝する異民族の応対係)に任ぜられたが,翌年没した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「張騫」の意味・わかりやすい解説

張騫
ちょうけん
(?―前114)

中国、前漢時代の人。匈奴(きょうど)によって河西甘粛(かんしゅく))地方からイリ川方面に追われていた月氏(げっし)と結ぶことにより匈奴挟撃を図った武帝の策に応じ、使者として紀元前139年ごろ長安を出発。甘粛で10年ほど匈奴の捕虜となったが脱出、西域(せいいき)北道経由で大宛(だいえん)(フェルガナ)に至る。しかし月氏はすでにアムダリヤ方面に定住し、大月氏国として繁栄に甘んじて、東行の意志はなかった。彼はバクトリア地方(アフガニスタン北部)などを実地に見聞し、南道を通って帰国の途中、ツァイダム付近でふたたび匈奴に捕らえられて抑留されたが、内乱に乗じて前126年帰国。出発時に100余人だった一行はこのとき道案内の匈奴人従者甘父との2人だけになっていた。前119年、彼はイリの烏孫(うそん)へ使節として至り、副使を西方各地に派遣した。このときも匈奴挟撃同盟はできなかったが、これ以後西域諸国は活発に来漢するようになった。西域・西アジアの情報や、ブドウなど西域の物産も張騫の二度の使節行を契機として大量に中国へもたらされるようになった。

[梅村 坦]

『『張騫の遠征』(『桑原隲蔵全集 巻3』所収・1968・岩波書店)』『長澤和俊著『張騫とシルク・ロード』(1972・清水書院)』『陳舜臣・尾崎秀樹監修『世界の歴史と文化 中国』(1993・新潮社)』

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百科事典マイペディア 「張騫」の意味・わかりやすい解説

張騫【ちょうけん】

中国,漢代の西域開拓者。武帝の命を受け,前139年西域へ向かい,途中,匈奴(きょうど)に捕らえられたが10余年を経て目的の大月氏国(月氏参照)に至る。前126年帰国。さらに前121年烏孫(うそん)に赴いた。2度の旅行で西方の事情が明らかとなり,漢の西域経営,また東西交通の発展に大きく貢献。
→関連項目康居新疆大夏フェルガナ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「張騫」の解説

張騫(ちょうけん)
Zhang Qian

?~前114

漢代に使者として西域を旅行した人。前139年頃武帝の命を受けて,匈奴(きょうど)を攻撃するため大月氏(だいげつし)と同盟しようとして長安を出発したが,匈奴に捕えられた。十余年間勾留されたのち脱出し,アム川北岸の大月氏の領地に到達した。しかし,大月氏に匈奴を討つ意志がなかったので帰途につき,途中また匈奴に捕えられたが,前126年帰国した。その後前121年烏孫(うそん)に派遣され,その従者が西域諸国の使者を伴って帰った。彼の旅行はその目的は果たせなかったが,西域地方の地理,民族,物産などに関する知識を中国にもたらし,漢の西域経営,東西文化の交流,東西交易の発展に大きな役割を果たした。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「張騫」の意味・わかりやすい解説

張騫
ちょうけん
Zhang Jian; Chang Ch`ien

[生]?
[没]元鼎3(前114)
中国,前漢の旅行家,外交家。漢中 (陝西省) の人。武帝の初年,月氏への使者として,建元2 (前 139) 年頃長安を出発。途中,匈奴に捕えられること十余年,ようやく元朔3 (前 126) 年長安に戻った。大月氏国との同盟には成功しなかったが,ここに1年あまり滞在し,西域の事情を漢に伝えた。この旅行を中国では「張騫鑿空 (さくくう) 」といっている。帰国後,匈奴遠征にも加わり,博望侯となった。そののち烏孫への使者となり,さらに副使を西域諸国に派遣した。これから漢と西域との交通が開かれた。

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世界大百科事典(旧版)内の張騫の言及

【安息】より

…パルティア王国に対する古代中国人の呼称で,この王朝が始祖アルサクArsakにちなんでアルサケス朝と呼ばれていたことに由来する。前2世紀末の張騫(ちようけん)によって中国に紹介されて以来,南北朝期までの漢籍にみられる。なお《漢書》西域伝では安息国の都を番兜城(ばんとうじよう)と伝えているが,この番兜こそがパルティアを示すと考えられている。…

【漢】より

… 武帝はこの余勢をかりて前112年(元鼎5)には南越国を平定し,このとき新設した郡はベトナムにまでおよび,さらに前108年(元封3)には朝鮮を平定して楽浪郡などの4郡を設け,東方の拠点とした。また武帝の匈奴征伐に先だち,張騫(ちようけん)は武帝の勅命をうけて大月氏国(月氏)と攻守同盟を結ぶべく西域に遠征した。彼はその使命を果たすことはできなかったが,パミール高原をこえてペルシアの地まで達した大遠征は中国と西方との交通を開くことになった。…

【汗血馬】より

…1日に千里を走り,疾駆すると血のような汗を流すので,この名がつけられたという。前漢の武帝のとき,張騫(ちようけん)の遠征によって西域に名馬のいることが中国に知られるようになった。中国では古来名馬を天馬と称しているが,《史記》の大宛列伝によると,〈はじめ烏孫の馬を天馬と名づけたが,大宛の汗血馬を得てみるといっそうたくましく,そこで大宛の馬を天馬と称し,烏孫の馬を西極(せいきよく)と改めた〉と記されている。…

【中国料理】より

…都市の盛場の盛況が史料に残っていることから推せば,飲食店などもこの時代に出現したであろう。漢の武帝の初めごろ,西域に出使した張騫(ちようけん)が西域のパン小麦,胡麻,胡椒,胡荽(香菜),胡羅蔔(ニンジン),胡瓜(キュウリ),葱(ネギ),蒜(ニンニク),茄子(ナス),柘榴(ザクロ),葡萄,胡餅(小麦や麦類などの粉で焼いたもの)などの植物,料理法をもち帰ったと伝えられる。もとよりこれらは,いわゆる〈張騫もの〉と称されるもので張騫の西域遠征の際にすべて伝来したものではない。…

※「張騫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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