日本の城がわかる事典 「末森城」の解説 すえもりじょう【末森城〈石川県〉】 石川県羽咋(はくい)郡宝達志水(ほうだつしみず)町(旧同郡押水町)にあった山城(やまじろ)。同県指定史跡。末森山(標高138.8m)につくられていた城郭である。加賀国と能登国を結ぶ交通の要衝にあった。畠山氏家臣で地頭の土肥親真によって築城されたとされているが、くわしい経緯は不明。1577年(天正5)、侵攻してきた越後の上杉謙信に降伏・開城し、家臣の斎藤朝信が入城したといわれているが、その後、親真が城主に復帰した。しかし、1580年(天正8)に、加賀一向一揆を制圧した織田家家臣の柴田勝家が攻め寄せ、親真は勝家に降伏・開城した。その後、親真は前田利家の与力となったために、末森城は利家に属することになった。このとき、親真は前田利家の妻芳春院(まつ)の姪を妻にしたといわれる。その後、親真は賎ヶ岳の戦いに従軍し討ち死にする。親真の死後、利家は末森城が戦略上の要衝にあったことから、重臣の奥村永福を配し、城の増修築を行った。1584年(天正12)9月、羽柴秀吉(豊臣秀吉)や利家に敵対した越中の佐々成政が、利家領国の加賀と能登を分断するために1万500の兵力で末森城を攻めた。佐々勢は二の丸まで陥落させたが、城主の奥村永福と兵500は利家の援軍がくるまで本丸を死守。援軍の到着で形勢は逆転し、佐々勢は越中に敗走した。この戦いは「末森合戦」とよばれ、利家はこの戦いに勝利したことで、能登・加賀統治の基礎を築いたといわれる。江戸時代に入り、1615年(元和1)に、一国一城令により廃城となった。末森城の本丸主門は金沢城(金沢市)の丸南門として移築されていたが、1759年(宝暦9)の大火で焼失した。また、本丸などにあった建物は解体され、城下の寺院などへ転用されたという記録もある。1985年(昭和60)に大規模な発掘調査が行われ、曲輪(くるわ)や建造物などの跡、生活用具や鉄砲の弾など15~16世紀の遺物が多数発見されたが、遺構はほとんど残っていない。「史跡 末森山古戦場」の石碑が建っている。JR七尾線宝達駅から徒歩約40分。◇末守城、末盛城とも記される。 すえもりじょう【末森城〈愛知県〉】 愛知県名古屋市千種(ちくさ)区にあった平山城(ひらやまじろ)。1548年(天文17)に織田信秀(織田信長の父)が三河の松平氏や駿河の今川氏に備えて築城し、織田信勝(信行、信長の弟)を入城させ、織田信光(信秀の弟)の居城守山城とともに東方の防衛拠点となった。同城は標高43mの丘の上に築かれた東西約200m、南北約160mの城域を持つ周囲を二重堀で囲んだ城郭である。那古野城(名古屋市中区)を居城としていた信秀は幼い嫡男信長に城を譲り、古渡城(ふるわたりじょう)(名古屋市中区)を築いて移り住んだが、晩年に末森城に移り、この城で1551年(天文20)に死去したといわれる。末森城主の信勝(信行)は1556年(弘治2)、織田家重臣の林秀貞、柴田勝家らとともに、信秀から家督を継いだ信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れて和睦。その後、1557年(弘治3)に再び謀反を企てたことで、清洲城において信長に謀殺された。信勝(信行)の死後、末森城は城主不在のまま放置されて、その後廃城になった。現在、本丸跡地付近が城山八幡宮の境内になっており、境内には末森城址の石碑が建っている。また、旧二の丸にはかつて愛知県が建設した旧昭和塾堂(現在は愛知学院大学に貸与されている)がある。城跡には、「三日月堀」とよばれた半月形の丸馬出などは失われてしまったが、空堀跡などの遺構が現存している。名古屋市営地下鉄東山線覚王山駅から徒歩約5分。◇末盛城とも記述される。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報