本山彦一(読み)モトヤマヒコイチ

デジタル大辞泉 「本山彦一」の意味・読み・例文・類語

もとやま‐ひこいち【本山彦一】

[1853~1932]新聞経営者。熊本の生まれ。明治36年(1903)大阪毎日新聞社長に就任。明治44年(1911)東京日日新聞買収・統合し、朝日新聞と並ぶ全国紙へ発展させた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「本山彦一」の意味・読み・例文・類語

もとやま‐ひこいち【本山彦一】

  1. 新聞経営者。熊本県出身。新聞社勤務ののち、大阪藤田組支配人となり、山陽鉄道創立に参画、のち大阪毎日新聞社社長。新聞商品論・漢字制限論をとなえ、新聞事業の近代化に尽力。社会事業・古墳発掘にも貢献。嘉永六~昭和七年(一八五三‐一九三二

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「本山彦一」の意味・わかりやすい解説

本山彦一
もとやまひこいち
(1853―1932)

新聞経営者。松陰(しょういん)と号した。嘉永(かえい)6年8月10日肥後国(熊本)に生まれる。藩学時習館、上京して箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三叉(さんしゃ)学舎に学ぶ。1874年(明治7)11月租税寮出仕、このころ福沢諭吉知遇を受ける。その後兵庫県に奉職、1881年神戸師範学校長となるが翌1882年退職し、『大阪新報』に入社、1883年1月『時事新報』へ移った。1886年大阪藤田組支配人となり、山陽鉄道会社の創立、児島(こじま)湾開墾事業に尽力する。かたわら大阪実業界の懇請により、1889年6月から『大阪毎日新聞』の相談役となり、経営に参画していたが、1898年9月業務担当社員となり、直接社務を担当することになった。1903年(明治36)11月、第5代社長に就任、新聞事業を近代企業化し、死ぬまで29年にわたり毎日新聞社を主宰、『朝日新聞』と並ぶ戦前日本の代表的二大新聞を築き上げた。本山の経営理念は「新聞商品主義」にあったが、その意図は「新聞の権威は独立が生む。新聞が独立するためには、商品主義を以(もっ)て新聞紙の経営を保持すること」というものであった。

 他方、社会事業にも力を入れ、1911年、毎日新聞社会事業団を創設、1927年(昭和2)には富民協会を設立して農村振興を図ったほか、各種学術奨励事業にも貢献している。『点字毎日新聞』の創刊(1922)も盲人に同情を寄せた本山の英断である。1930年12月貴族院議員勅選される。昭和7年12月30日没。勲一等瑞宝章を贈られた。

[春原昭彦]

『大阪毎日新聞社編・刊『稿本本山彦一翁伝』(1929)』『故本山社長伝記編纂委員会編『松陰本山彦一翁』全2巻(1937・大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「本山彦一」の意味・わかりやすい解説

本山彦一 (もとやまひこいち)
生没年:1853-1932(嘉永6-昭和7)

新聞経営者。肥後国熊本に生まれ,1871年(明治4)東京に遊学,箕作秋坪(みつくりしゆうへい),福沢諭吉に学んだ。初め官途についたが,82年《大阪新報》に入社し,翌年《時事新報》に移った。86年大阪の藤田組支配人となり一時実業界に転じたが,89年藤田組の関係から《大阪毎日新聞》(《毎日新聞》)の相談役に就任,以後その経営に深く関与するとともに,原敬,小松原英太郎を社長に招いて紙勢の拡充を図った。1903年,社長に就任し,終生新聞の経営にあたった。

 新聞の独立性を保つためには経営の独立が必要であるとして〈新聞商品主義〉を唱え,広告収入の増加(記事広告の採用は著名),販売網の拡大を推進した。11年には《東京日日新聞》の経営権を取得し,東京進出に成功した。早くから漢字制限を唱え,また27年には農業問題への関心から富民協会を設立した。遺跡発掘事業への援助でも有名である。30年には貴族院議員に勅選された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

20世紀日本人名事典 「本山彦一」の解説

本山 彦一
モトヤマ ヒコイチ

明治・大正期の新聞人 毎日新聞社社長。



生年
嘉永6年8月10日(1853年)

没年
昭和7(1932)年12月30日

出生地
肥後国熊本城下東子飼(現・熊本県熊本市)

学歴〔年〕
三叉学舎

経歴
三叉学舎で洋学を学んだあと福沢諭吉に師事。25歳で書いた「條約改正論」が外字新聞にも転載されて認められた。兵庫県勧業課長、神戸師範学校長を経て、明治15年大阪新報に入社。時事新報で会計局長まで務めた後、大阪の藤田組支配人となったが、22年大阪毎日新聞の創刊で相談役として迎えられ、36年社長に就任。以後経営合理化の一方、不偏不党、読みやすさ、実益中心などの編集方針を立て、大衆紙としての毎日新聞を方向づける。その後44年には東京日日新聞を買収して東京進出を果たし、死去するまで30年近くも社長の座にあった。この間、昭和5年には勅選貴族院議員に選ばれている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本山彦一」の意味・わかりやすい解説

本山彦一
もとやまひこいち

[生]嘉永6 (1853).8.10./8.14. 肥後,熊本
[没]1932.12.30. 東京
明治・大正・昭和期の新聞経営者。熊本藩士の子として生まれる。明治4(1871)年に上京して箕作秋坪の三叉学舎に入り,のち福沢諭吉に学ぶ。大蔵省租税寮や兵庫県に出仕したのち,1882年大阪新報社に入社,さらに時事新報社(→時事新報)に移った。1886年藤田組支配人となり,山陽鉄道,児島湾干拓事業に携わったが,1889年大阪毎日新聞社(→大阪毎日新聞)の相談役となり,1903年同社社長に就任。1911年には東京日日新聞社(→東京日日新聞)を合併して東京に進出した。不偏不党の立場を持し,全国紙としての『毎日新聞』を大成した。また農業問題に意を注ぎ,1927年に富民協会を設立。1930年貴族院議員に勅選された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「本山彦一」の意味・わかりやすい解説

本山彦一【もとやまひこいち】

新聞経営者。肥後国熊本生れ。初め《大阪新報》《時事新報》などで活躍後,実業家に転じた。1888年の《大阪毎日新聞》の発刊に際し,経営に深くかかわるようになる。1903年社長に就任。同社の東京進出に尽力し,1911年《東京日日新聞》を合併,1943年に《毎日新聞》と改題した。〈新聞商品主義〉を貫いて《毎日新聞》を3大紙の一つへと発展させた。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本山彦一」の解説

本山彦一 もとやま-ひこいち

1853-1932 明治-昭和時代前期の新聞経営者。
嘉永(かえい)6年8月10日生まれ。慶応義塾でまなぶ。時事新報社会計局長をへて明治19年藤田組支配人。22年大阪毎日新聞社相談役,36年社長となった。44年「東京日日新聞」を合併して東京に進出。「新聞は商品なり」をとなえ,「毎日新聞」を全国紙にそだてた。貴族院議員。昭和7年12月30日死去。80歳。肥後(熊本県)出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「本山彦一」の解説

本山 彦一 (もとやま ひこいち)

生年月日:1853年8月10日
明治時代;大正時代の新聞経営者。毎日新聞社社長
1932年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の本山彦一の言及

【毎日新聞】より

…85年《大阪日報》に題号を戻し,いったん休刊の後,88年11月大阪実業界の支援により《大阪毎日新聞》として再発足した。当初は大同団結運動支持の柴四朗(東海散士)主筆の下で政治色が強かったが経営上は振るわず,89年からは本山彦一相談役と渡辺治(1864‐93)社長兼主筆の指導の下に穏和な論調の紙面作りと広告収入の増加で発展し,《大阪朝日新聞》と並ぶ阪神地方の有力紙となった。97年から原敬,1900年から小松原英太郎(1852‐1919)が社長を務め,とくに原は紙面の平易化,家庭面,海外通信の拡充に努めた。…

※「本山彦一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android