新聞経営者。松陰(しょういん)と号した。嘉永(かえい)6年8月10日肥後国(熊本)に生まれる。藩学時習館、上京して箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三叉(さんしゃ)学舎に学ぶ。1874年(明治7)11月租税寮出仕、このころ福沢諭吉の知遇を受ける。その後兵庫県に奉職、1881年神戸師範学校長となるが翌1882年退職し、『大阪新報』に入社、1883年1月『時事新報』へ移った。1886年大阪藤田組支配人となり、山陽鉄道会社の創立、児島(こじま)湾開墾事業に尽力する。かたわら大阪実業界の懇請により、1889年6月から『大阪毎日新聞』の相談役となり、経営に参画していたが、1898年9月業務担当社員となり、直接社務を担当することになった。1903年(明治36)11月、第5代社長に就任、新聞事業を近代企業化し、死ぬまで29年にわたり毎日新聞社を主宰、『朝日新聞』と並ぶ戦前日本の代表的二大新聞を築き上げた。本山の経営理念は「新聞商品主義」にあったが、その意図は「新聞の権威は独立が生む。新聞が独立するためには、商品主義を以(もっ)て新聞紙の経営を保持すること」というものであった。
他方、社会事業にも力を入れ、1911年、毎日新聞社会事業団を創設、1927年(昭和2)には富民協会を設立して農村振興を図ったほか、各種学術奨励事業にも貢献している。『点字毎日新聞』の創刊(1922)も盲人に同情を寄せた本山の英断である。1930年12月貴族院議員に勅選される。昭和7年12月30日没。勲一等瑞宝章を贈られた。
[春原昭彦]
『大阪毎日新聞社編・刊『稿本本山彦一翁伝』(1929)』▽『故本山社長伝記編纂委員会編『松陰本山彦一翁』全2巻(1937・大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)』
新聞経営者。肥後国熊本に生まれ,1871年(明治4)東京に遊学,箕作秋坪(みつくりしゆうへい),福沢諭吉に学んだ。初め官途についたが,82年《大阪新報》に入社し,翌年《時事新報》に移った。86年大阪の藤田組支配人となり一時実業界に転じたが,89年藤田組の関係から《大阪毎日新聞》(《毎日新聞》)の相談役に就任,以後その経営に深く関与するとともに,原敬,小松原英太郎を社長に招いて紙勢の拡充を図った。1903年,社長に就任し,終生新聞の経営にあたった。
新聞の独立性を保つためには経営の独立が必要であるとして〈新聞商品主義〉を唱え,広告収入の増加(記事広告の採用は著名),販売網の拡大を推進した。11年には《東京日日新聞》の経営権を取得し,東京進出に成功した。早くから漢字制限を唱え,また27年には農業問題への関心から富民協会を設立した。遺跡発掘事業への援助でも有名である。30年には貴族院議員に勅選された。
執筆者:佐々木 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
明治・大正期の新聞人 毎日新聞社社長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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…85年《大阪日報》に題号を戻し,いったん休刊の後,88年11月大阪実業界の支援により《大阪毎日新聞》として再発足した。当初は大同団結運動支持の柴四朗(東海散士)主筆の下で政治色が強かったが経営上は振るわず,89年からは本山彦一相談役と渡辺治(1864‐93)社長兼主筆の指導の下に穏和な論調の紙面作りと広告収入の増加で発展し,《大阪朝日新聞》と並ぶ阪神地方の有力紙となった。97年から原敬,1900年から小松原英太郎(1852‐1919)が社長を務め,とくに原は紙面の平易化,家庭面,海外通信の拡充に努めた。…
※「本山彦一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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