百科事典マイペディア 「李成」の意味・わかりやすい解説
李成【りせい】
→関連項目院体画|郭煕|許道寧|倪【さん】|高克恭|曹知白
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中国、五代~北宋(ほくそう)初期の画家。唐の宗室の後裔(こうえい)。原籍は長安。祖父のとき唐末の戦乱を避けて青州営丘(山東省)に移り住んだ。酒をたしなみ、詩をよくしたが、絵は自ら楽しむためにのみ描き、寡作であった。北宋末にはすでに真跡もわずかで、米芾(べいふつ)はその著書『画史』のなかで、そのあまりの少なさに「無李論」を唱えたほどであった。その絵は「千里咫尺(せんりしせき)」と評されるように、淡墨により、水平線(地平線)を低く置き、平坦(へいたん)で広大な山野を描くのを得意とした。関同(かんどう)、范寛(はんかん)とともに当時の山水画の三大家とされ、北宋前期の絵画に大きな影響を与えた。伝称作としてではあるが、『喬松平遠(きょうしょうへいえん)図』(三重・澄懐堂文庫)がその画風をよく示すものとして有名である。
[近藤秀実]
…60年代にかけて李殷直の《濁流》,金石範(1925‐ )の《鴉の死》(そのテーマは《火山島》にひきつがれる),金達寿の《太白山脈》等,民族分断の根源への追究が目立った。60年代末から70年代にかけて李成,金鶴泳,高史明,金泰生,鄭承博,詩人の金時鐘らが登場した。李成(1935‐ )は72年に《砧をうつ女》で第66回芥川賞を受賞し,在日二世の民族的主体の確立と祖国統一運動への参与をテーマに活動を続け,それらは《見果てぬ夢》(1979)として結実した。…
…その軸となったのが山水画であり,山水画の英雄時代を開いた巨匠が華北の荆浩,江南の董源である。彼らは唐末五代の戦乱の中,それぞれの地方性を踏まえた大様式を築きあげ,荆浩に学んだ李成,董源の弟子巨然らが引き続いて北宋における総合の時代を導きだす,先駆としての役割を果たした。この数十年ほどの間に確立した南北の対立と総合の図式,空間構成を重視する華北山水画と造形素材それ自体の効果もあわせて追究する江南山水画の対立と総合の図式が,以後の中国山水画史の展開を規定する基本的な枠組みとなる。…
…樹木は人物・山水・花鳥画の重要な構成要素であり,古来多くの画法が発明された。唐の韋偃(いえん)は竜をかたどった松,張璪は孤高におごる松,宋の李成・郭熙は君子を象徴すると同時に奇怪な寒林,米友仁は無根樹,馬遠は車輪蝴蝶の松,元の倪瓚(げいさん)はまばらな蕭散とした雑樹をかいた。また根,幹,枝,葉の各部も多様に分かれ,根は露根,枝は鹿角,蟹爪,葉は点葉,夾葉などの画法があった。…
…当時〈真〉と呼ばれた写実に最も留意し,山林に分け入って自然を徹底的に観察した。その結果,高遠形式,雨点皴,山頂の灌木林などを特徴とする山水画を創出,巨大な峰巒(ほうらん)が威圧感をもって迫る感じは,ともに北宋を代表する李成の平遠山水と対照的。《渓山行旅図》(台北故宮博物院)は現存唯一の真跡。…
…その意味では風景画は西洋では近世の所産であり,中国や日本と大きな対照をなしている。また風景表現の形式に関しては,中景が描かれるようになって初めて遠近の連続感が生じるのであるが,中国では五代末北宋初期(例,李成)にすでに中景表現を認めうるに対し,西洋では14世紀半ば(例,A.ロレンツェッティのシエナ,パラッツォ・プブリコの壁画《善政》)になってようやく中景描写が成立し,以後加速的に風景画が増大しまた写実度を深めていく。しかし,西洋の風景画は画種として独立して後も長らく宗教画,歴史画,神話画等に比して小芸術であったに対し,中国や日本では士大夫や禅僧等教養階級の賞玩の具として高く評価され,またそのゆえにしだいに写実性を失って〈胸中の景〉(胸中丘壑(きようちゆうきゆうがく))と化することともなった。…
※「李成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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