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村上義光 むらかみよしてる

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

村上義光
むらかみよしてる

[生]?
[没]元弘3=正慶2(1333).1.18.
鎌倉時代末期の武士。信泰の子。義日,義暉とも書く。通称,彦四郎。信濃源氏。馬権頭。元弘の乱護良親王に従った。元弘1 (1331) 年親王が笠置へ落ち延び,さらに大和十津川から高野方面へ逃れる途中,錦旗を芋瀬庄司に奪われたが,義光はこれを取返した。

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デジタル大辞泉の解説

むらかみ‐よしてる【村上義光】

[?~1333]鎌倉末期の武将。信濃の人。通称、彦四郎。元弘の変護良(もりなが)親王身代わりとなり、吉野で自刃。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

村上義光 むらかみ-よしてる

?-1333 鎌倉時代の武将。
信濃(しなの)源氏。元弘(げんこう)の乱のとき,子の義隆とともに護良(もりよし)親王にしたがって幕府軍とたたかう。正慶(しょうきょう)2=元弘3年閏(うるう)2月1日吉野の落城がせまると親王に脱出をすすめ,身代わりとなって自決した。通称は彦四郎。名は義日,義暉ともかく。
【格言など】只今自害するありさま見おいて,汝らが武運たちまちに尽きて,腹を切らんずる時の手本にせよ(「太平記」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

村上義光

没年:正慶2/元弘3.閏2.1(1333.3.17)
生年:生年不詳
鎌倉末期の武将。信濃源氏信泰の子。元弘の乱(1331)の際,護良親王に属して鎌倉幕府軍と戦う。吉野の攻防戦で逃走して再起を図る護良親王の身代わりとなり,壮烈な最期を遂げた。

(三田武繁)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

むらかみよしてる【村上義光】

?‐1333(元弘3)
鎌倉末期の武士。《尊卑分脈》《梅松論》では義日と記す。清和源氏村上信泰の子。彦四郎と称し,従五位下左馬権頭。1331年(元弘1)の笠置落城後,般若寺より高野山へ逃れる護良親王に随従,芋瀬荘司より錦の御旗を奪回し,また33年吉野落城の際には幕府の大軍が包囲する中,親王の身代りとなって自害し,親王を落ちのびさせた忠烈の士として《太平記》に描かれている。【森 茂暁】

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大辞林 第三版の解説

むらかみよしてる【村上義光】

?~1333) 鎌倉末期の武将。元弘の乱に護良もりよし親王の挙兵に参加し各地を転戦。太平記によれば、奪われた錦の御旗を取り返し、また親王の身代わりに吉野で自殺したという。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

村上義光
むらかみよしてる
(?―1333)

鎌倉末期の武士。信泰(のぶやす)の子。『太平記(たいへいき)』は義光、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』は義日(よしてる)につくる。通称彦四郎。従(じゅ)五位下左馬権頭(さまごんのかみ)となる。元弘(げんこう)の変(1331)の攻防に際し、子義隆(よしたか)とともに護良(もりよし)親王に従った。笠置(かさぎ)(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)が落ちたのち、高野山(こうやさん)に逃れる親王を助けた。1333年(元弘3・正慶2)親王のこもる吉野城(奈良県吉野郡)に幕府軍の攻撃がかけられた際、親王の身代りになって自害し、親王を落ち延びさせた。のち従三位(じゅさんみ)を贈られた。[田辺久子]

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世界大百科事典内の村上義光の言及

【鎌倉宮】より

…73年官幣中社に列せられた。境内に親王の忠臣村上義光,侍女南の方をまつる村上社,南方社の両摂社がある。また史実ではないが,親王の土牢と伝えるものがある。…

【腹】より

…《義経記》でも源義経が切腹してから絶命するまでかなりの時間がある。腹膜を破って小腸を出すことにむしろ切腹の意義があり,これが誇張されれば《太平記》の村上義光(よしてる)のように,はらわたをつかみ出して投げたりする。伝承上最初に切腹したのは淡海(おうみ)の神という女性で,夫に対する恨みと怒りで腹をさき,はらわたを出したが死ねずに沼に入水したので,この腹辟(はらさき)の沼のフナなどには今も五臓がないという(《播磨国風土記》賀毛郡)。…

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