イギリス、オランダ、フランスなどで、東洋貿易実施のため17世紀初めに設立された独占的特許会社。設立の年はイギリスが1600年、オランダが1602年、フランスが1604年であるが、フランスの場合は、1664年に再組織されるまで活動せず、三国のうちでもっとも不振であった。
[永積 昭]
15世紀末以来の相次ぐ大航海により、ポルトガル、スペインの両国はそれぞれ東回り、西回りの航路で東洋貿易に進出した。コロンブスは新大陸発見のとき、これをインドの一部と誤認し、「西インド」の名称でよんだが、真相が知られてからも、便宜上従来の東洋貿易の目的地を「東インド」とよぶ習慣ができた。この東インドの産物のうちでもとくにヨーロッパ市場で喜ばれたのは、胡椒(こしょう)、丁子(ちょうじ)、肉豆蔲(にくずく)などの香辛料(香料)であった。このため、香料の原産地であるモルッカ諸島(香料諸島)の争奪が繰り返され、やがて16世紀末になると、新教国であるイギリスとオランダの両国もこの競争に加わるようになった。
ポルトガル、スペインの場合、海外貿易は王室の独占事業で、本国の身分制度を反映した階級制が保たれていた。一方イギリス、オランダの場合は、中世末期に地中海沿岸で発達した経営形態を受け継いで、商人仲間が共同出資で貿易を行い、あとで利益を分配する初期資本主義的な性格を備えていた。しかし東インド貿易が盛んになると、次々に小会社が設立され、同国人の間での過当競争の結果、利潤は減少した。たとえば、1595年から1602年までの間に東インドに渡航したオランダ船隊は14、船数は65隻と伝えられる。
イギリスの場合も、すでに16世紀中ごろからいくつかの会社が存在していた。1600年エリザベス1世は東インド会社British East Indian Companyに特許状を与えて、東インド貿易を一手に行わせることにした。特許状には貿易のみならず、海外での法律作成、同国人の密貿易処罰、条約締結、戦争遂行、貨幣鋳造などについての決定権が定められ、会社というよりは一独立国家に等しい権力を備えていた。2年後に成立したオランダ東インド会社Vereenighde Oost Indisch Compagnieも、ほぼ同様の特権をオランダ連邦議会から与えられた。イギリスの会社に比べて資本額は10倍であり、また航海ごとに会社を設立、解散せずに恒常的な組織を保つ世界最初の株式会社と称される。しかし、この会社の前身である六つの会社は、統合後も陰に陽に対立を続け、アムステルダム支部が優位を保った。また重役会は会社の経理を公開せず、配当を恣意(しい)的に行うなど、非民主的な点が多く、たびたびの改革要求にもかかわらず、18世紀末の解体に至るまでほとんど変わらなかった。
[永積 昭]
1602年にイギリスはインドネシアのジャワ島西部のバンテン(バンタム)港に商館を開き、香料貿易に進出を企てた。しかし、その翌年同地に商館を開いたオランダにより徐々に圧倒され、ことにオランダのジャカルタ獲得(1619)や、アンボイナ事件に端を発したイギリスのモルッカ諸島からの撤退(1623)などにより、オランダはついに東インド貿易の最終勝利者となった。しかし、その排他的な貿易方針は、これまでアジア各地商人が営んでいた地域的貿易をも衰退させ、かえって自分の首を締める結果となった。また17世紀中ごろからジャワ土着君主の王位継承戦争にしばしば介入して領土を拡張し、香料貿易から商業用作物栽培に転身を図った。早くからオランダ東インド会社の直轄領となっていた西部ジャワのプリアンガン地方では、綿糸、藍(あい)、胡椒などの栽培を奨励し、各地区の首長からこれらの作物を会社が定めた値段で買い取る制度が、17世紀末ごろから成立した。これを義務供出制とよび、やがて18世紀初めにコーヒーのジャワ移植が成功すると、その栽培にも義務供出制が適用され、その供出量は1725年には400万ポンドを突破したといわれる。これは当然ヨーロッパ市場におけるコーヒー価格の暴落を招き、会社は現地首長からのコーヒーの買値を切り下げた。このように会社の方針がしばしば変わったために、現地では絶えず紛争が起こり、利潤は思うようにあがらなかった。
オランダ東インド会社の貿易不振の原因の一つは、会社職員の不正貿易にあった。つまり、会社勘定以外に個人の貿易品を運搬したり、売買して私腹を肥やしたのである。会社は最初厳罰主義で臨んだが、のちにはその禁止を断念して、個人貿易の限度額を定めたりした。しかし、いうまでもなく効果はあがらなかった。
1741年のファン・インホフGustaaf Willem Imhoff(1705―1750)の改革案、1792年のファン・ホーヘンドルプvan Hogendorp(1761―1822)の改革案などは、いずれもオランダ東インド会社の時代遅れの貿易独占政策をやめさせ、自由貿易を振興しようとするものであったが、頑迷な会社幹部は耳を傾けなかった。フランス革命に続くヨーロッパの戦乱により、1793年からフランス軍のオランダ進攻が始まった。オランダ総督一家はイギリスに亡命して、1795年オランダはバタビア共和国となった。それに伴って莫大(ばくだい)な負債を抱えたオランダ東インド会社は1798年に消滅した(定款上1799年まで存続)。
[永積 昭]
インドネシアからインドへ目を転じたイギリスは、18世紀に入ってインドの大帝国ムガルが衰え始めたのに乗じ、まずベンガル地方を植民地化した。当時イギリスとフランスはヨーロッパや新大陸で事ごとに衝突していたが、インド進出に際しても両国は激しく戦っていた。
フランスは1715年のルイ15世即位以来、イギリス人ジョン・ローJohn Law(1671―1729)を顧問として財政立て直しに努め、1719年には東インド会社、西インド会社、ギネア会社を統合して「両インド会社」とした。この会社システムは会社株の値下りなどにより失敗したが、1723年以後は北アメリカのルイジアナ、西インド諸島などで活動を続け、とくにインドのポンディシェリ(現、プドゥチェリ)には有能な総督が続いて、フランス東インド会社Compagnie des Indes orientalesの黄金時代を現出していた。しかし、1759年のマスリパタン商館喪失、1761年のポンディシェリ陥落により、優勢な海軍をもつイギリスの優位は決定的となり、その後1世紀余りの間にインド亜大陸全部とスリランカをイギリス植民地とした。こうしてイギリス東インド会社は、インド経営で得られた利潤を本国に運ぶ重要な役割を担うことになった。このようにイギリス東インド会社の領土が増大するにつれて、イギリス本国政府との間には種々の問題が生じた。1773年にベンガル州知事は総督に格上げされたかわりに、総督の任命はイギリス国王の許可を要することになった。さらに1784年の立法により、政府内に一部局が置かれてイギリス領インドの統治にあたることが定められた。
一方、経済的にもイギリス東インド会社は時代の流れに取り残されつつあった。18世紀末からイギリスに始まる産業革命は、綿織物などの大量の工業製品の市場をインドに求め、産業資本は貿易自由化を要求して、会社の利害とまっこうから対立した。ただでさえ久しく財政難に苦しんでいた会社は、しだいに政府の監督を受け、ついに1833年に活動を停止した。このように、東インド会社はだいたいにおいてヨーロッパ史上「絶対主義時代」の産物であり、重商主義的政策の支柱でもあったが、資本主義の進展とともにその存在理由を失い、植民地経営をそれぞれの政府が肩代りするようになった。
[永積 昭]
『西村孝夫著『フランス東インド会社小史』(1977・大阪府立大学経済学部)』▽『永積昭著『オランダ東インド会社』(1971・近藤出版社)』▽『『大塚久雄著作集 1、2』(1969・岩波書店)』
1600年から1858年のあいだに,イギリス・アジア間の貿易やインド支配を行ったイギリスの特権的な会社。〈地理上の発見〉以降ヨーロッパ各国がアジアとの直接貿易に進出するなかで,イギリス東インド会社は,喜望峰以東のアジア地域の貿易を独占的に行う特権会社として,1600年12月31日に設立され,57年のクロムウェルによる改組を経て,近代的株式会社として確立していった。イギリス東インド会社は,オランダの力の強かったモルッカ(香料)諸島からは退却し,ポルトガルやオランダの勢力を抑えてインドに拠点を拡大し,のちには,プラッシーの戦などを通じてフランスのインドへの進出を挫折させた。会社は,取引の拠点としてインド各地に商館を設立し,その要塞化を図った。会社は,ベンガル地方などで,会社取扱商品を自由に通関させる権利を得ただけでなく,1757年のプラッシーの戦によってベンガル地方の事実上の支配権を確立し,65年には同地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得した。その後,マイソール戦争,マラーター戦争などを経て,インドの主要部分を支配するにいたった。
こうして,商業会社として出発した東インド会社の領土支配が拡大してゆくに伴い,行政,司法などインド支配の機構が確立されていった。その中心をなしたのは,地税の徴収機構の確立である。他方,ノース規制法(1773)やピットのインド法(1784)を経て,本国政府が会社のインド支配を監督,統制する体制もしだいに確立していった。
会社は,当初,本国から銀を運んで,コショウやインド産綿布などを買い付けていた。1765年の徴税権獲得以降は,本国からの銀という対価を支払うことなく,インド内で徴収した地税などの収入によってインド綿布を獲得し,それをロンドンで競売することになった。会社は,インド内で得た地税などの収入を,こういう形でイギリス本国に送金したのである。18世紀後半以降には,会社のイギリス本国への輸出に占める中国茶の比重が急増する。中国茶買付けの対価を提供したのは,原綿や会社の専売品アヘンの自由商人による対中国輸出であった。
18世紀後半,イギリス本国では産業革命が進展していった。イギリスで,産業資本家層を含めて東インド会社の貿易独占への批判勢力が強まる一方,会社の経営や東インド貿易にも変化が生じつつあった。インド軍(会社軍・インド駐留国王軍)が大英帝国の戦略に組み込まれてゆくなかで,軍事費の増大によって会社の財政状況は悪化し,会社のイギリス・インド貿易の中心であるインド綿布のイギリスへの輸出の減退と採算割れが起こり,他方,自由商人による私貿易は拡大していった。こうして,1813年には会社は,イギリス・インド貿易の独占の放棄を余儀なくされ,33年の特許法で,翌年から中国貿易をも含めて会社の貿易活動は全面的に停止されるにいたった。会社は,インド大反乱(セポイの乱)後の58年に解散し,インドはイギリスの直轄植民地となった。
イギリス東インド会社は,商業会社として出発しながら,インドを植民地化し,地税徴収制度をはじめとしてその支配機構を創出し,アヘンなど輸出向け商品の生産地として開発するなど,インド経済の植民地的再編成を推し進め,イギリスのインド支配の基礎を作りあげたのである。
→インド帝国
執筆者:柳沢 悠
オランダの東インドにおける植民地経営,貿易を独占的に行った会社。オランダの東洋進出は,スペイン,ポルトガルより約1世紀遅く,1595-97年のハウトマンの航海に始まるが,その帰国に刺激されて多くの航海会社が乱立し,過当競争により利益が上がらなくなったので,オランダ連邦議会は1602年3月に連合東インド会社設立を決定した。これによりオランダのアムステルダム,エンクハイゼン,ホールン,ロッテルダム,デルフト,ミッデルブルフの6ヵ所に散在していた個々の会社が統合され,それぞれは東インド会社のカーメル(支部)と改称された。イギリス東インド会社設立はこれより2年早いが,その資本金はオランダの会社の1/10にも満たず,またその性格も航海ごとに起債する当座企業の性格を残していたので,オランダ東インド会社は世界最初の株式会社と見なされている。取締役会は前身会社の取締役72名を引き継ぎ,徐々に60名まで減らし,その上に17人会と呼ばれる重役会を置いた。
政府から特許状によって与えられた権限は,〈東インド〉のみならず喜望峰の東からマゼラン海峡の西に及ぶ全海域での条約締結,自衛戦争の遂行,要塞構築,貨幣鋳造などを含み,あたかも一独立国家のように強大なものであった。さらに東インドにおける統制と能率の向上のため1609年に総督の制度を設けたが,根拠地をどこに置くかは容易に決まらなかった。ジャワ島のバンテン港その他に置かれた商館は,イギリス人との激しい競争にさらされ,バンテン王国の属領であるスンダ・カラパ(現,ジャカルタ)につくられた要塞は,バンテンおよびイギリス軍の攻撃を受けた。しかし第4代総督クーンらは防戦に成功して19年にこの地を正式にバンテン王国から譲り受け,バタビアと改称した。会社は21年にバンダ諸島を征服し,23年にはアンボン事件によりイギリス勢力を香料貿易から一掃し,さらに39年ごろ以後の日本の鎖国に際しても,唯一のヨーロッパ国民として中国人とともに来航を許された。こうして日本の銀,銅,中国の絹,インドの綿,インドネシアの香辛料などの貿易により,オランダ東インド会社は莫大な利潤を得た。しかし,会社の重役会は連邦議会と強いつながりをもち,利益を独占しようとする保守的性格を帯びていたので,経理内容を公開せず,配当なども不規則かつ恣意的に行った。会社職員も私利をはかって会社の船に個人の荷を積んだりしたので,経営は乱脈をきわめ,数度の改革要求もついに採用されなかった。
バタビアを中心とするアジア貿易に巨利を博した東インド会社は,70年代からジャワ中部のマタラム・イスラム王国の内紛に乗じて介入し,少しずつ領土を拡大した。とくに1755年のマタラム分割により,ジャワの大部分を直轄領としたが,領土保全のために出費はかさみ,しかも香辛料や新たに導入されたコーヒー,サトウキビも会社の負債を償うには足りなかった。18世紀末にオランダに政変が起こり,98年にバタビア共和国憲法が施行されると,会社は正式に解散されて(定款上は1799年まで存続),2世紀にわたる歴史を閉じた。
→オランダ領東インド
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
17世紀から19世紀にかけて,東インドとヨーロッパとの間の貿易や,南アジア,東南アジアにおける植民地の経営に従事した,ヨーロッパ諸国の会社の総称。本来の目的は,香辛料,綿布などを産する東インドとヨーロッパとの間の貿易を独占し,高い利潤をあげることにあったが,次第に現地の支配者から支配権を奪い,土地と人を支配するようになっていった。その過程で,重商主義的な独占貿易を行う企業から,領土支配を行う準政府的な機関へと変質していった。イギリスとオランダは,それぞれ1600年と02年に,相次いで東インド会社を設立した。初めに優勢だったのはオランダ東インド会社で,東南アジアの香料と胡椒(こしょう)の貿易を支配し,次いで,生産そのものを掌握するために,ジャワ島を中心に,内陸部の土地と人を支配するようになった。こうして成立したのがオランダ領東インドである。オランダ東インド会社は1799年末に解散した。立ち後れたイギリス東インド会社は,インド貿易(綿布,藍(あい),胡椒など)と中国貿易(茶,絹など)に集中した。1757年,プラッシーの戦いに勝利してベンガルの覇権を獲得したのを皮切りに,征服戦争を進め,1810年代末までにはインドの主要部分を英領インドとして領有するに至った。しかし他方では,自由貿易主義者から激しい批判を浴びせられ,14年にはインド貿易の独占を,34年には中国貿易の独占を放棄させられ,58年,シパーヒーの反乱の責任をとらされる形で活動を停止した。なお,フランス,デンマークなども東インド会社を設立したが,重要な役割を果たしたとはいえない。
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…相模国三浦郡逸見村(現,横須賀市)に領地250石,また江戸日本橋に邸宅を与えられ,三浦按針と呼ばれた。このころイギリス東インド会社はジャワのバンタムに商館を設けていたが,11年アダムズがジャワにいるイギリス人あてに日本の事情を知らせる手紙を書いたことが,イギリスの日本貿易開始の契機となった。13年ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持ち,平戸に来航し,アダムズは彼とともに駿府で家康に謁見し,貿易許可の朱印状を得た。…
…なお鴉片の鴉は,黒褐色(ボール状になったアヘンの色は黒砂糖に似ている)の色からとられたものであろう。
[東インド会社とアヘン貿易]
薬用に限定されていたアヘンが,大規模に商品として生産・販売されるようになり,麻薬と化すようになったのは,18世紀後半,イギリス東インド会社が植民地インドでケシ栽培,アヘン生産の専売制を開始し,これを中国向けに輸出しはじめてからのことである。こうしてアヘンは,中国からイギリスへの茶,イギリスからインドへの機械製綿製品という輸出商品とともに,19世紀アジア三角貿易の不可欠の商品となった。…
…イギリスはこれらの関係を形成することにより,(1)自国工業製品の販路開拓,(2)銀を対価としない中国茶輸入の確保,(3)植民地インド政府の財源確立,という課題を果たさんとした。そのため,東インド会社にアヘン貿易独占権を与え,その東インド会社は,アヘン輸入を禁ずる中国に対し,ジャーディン・マセソン商会などの私貿易商人を通じて密輸出するという,中国市場と表裏二層の貿易関係をとり結んだ。したがって,この関係は次の矛盾を内包していた。…
…97年成立のブレアTony Blair(1953‐ )政権はEUに対し,国益は守りつつも,より柔軟な対応を採るものと期待されている。
[日英関係]
イギリスと日本との交渉は,1600年(慶長5)九州豊後海岸にウィリアム・アダムズ(三浦按針)が漂着したことに始まり,徳川家康の許可を得てイギリス東インド会社は13年より平戸に商館を開いて通商を行った。しかしオランダとの競争に敗れて貿易はふるわず,23年(元和9)平戸商館は閉鎖され,両国の関係は絶たれた。…
…イギリス東インド会社が平戸に設けた商館。1613年(慶長18)イギリス国王の国書を携えたJ.セーリスが来航し,徳川家康から通商の許可を得て,平戸に商館を設置した。…
…このとき,軍事支出の増大とジャーギールの不足から帝国の財政は悪化し,そのうえアウラングゼーブのヒンドゥーに対する強圧的な政治的・宗教的政策が加わって,ザミーンダール層(ザミーンダーリー制度)の反抗が強まり,それが帝国滅亡の原因となった。
[イギリス植民地時代の制度]
イギリス東インド会社のインド統治は,国王の特許状によって権限が賦与され,政府と議会の監督のもとにおかれた。ムガル帝国からは領有の権原や地税徴収の原則などを引き継いだが,従来の統治と異なり,イギリスの独裁的統治であった。…
…そして,株式を株券という有価証券に表章しその譲渡を自由としていることは,この資本維持の原則のため,出資の払戻しができない点の不都合を解消し,株主の投下資本の回収を株式譲渡という方法で可能にするためである。
[沿革と最近の動向]
株式会社の起源についてはいろいろの説があるが,後述のようにオランダ東インド会社(1602設立)等の植民公社を起源とみるものが多い。当初は,国王の特許状によって設立され,経営も官吏・大株主が専制的に行ったが(特許主義),しだいに私的な民主的性格のものが現れ,1807年のフランス商法典は,株式会社に関する一般的な規定をおくに至った。…
…他方,初期のモスコー会社(Muscovy Company,別名ロシア会社,1555設立)やレバント会社(1581年の創設時から92年まで)は合本制をとった。とくに1600年に成立する東インド会社は合本制会社の典型となった。制規会社の場合,近代の株式会社の諸特徴のうち,(1)個々の商人の寿命をこえて存続しうる永続性など,法人的性格は認められるが,(2)資本の合同が認められないのに対し,合本制会社では(2)の要素も加わる(このため,株式会社の訳語もしばしば与えられる)。…
…
[スパイス・ルートの終幕]
ヨーロッパから見て香辛料の歴史が紀元前後のローマ人に始まるとすれば,終幕はいつごろであったろう。17世紀にジャワに進出したオランダ東インド会社とイギリス東インド会社の最大の目的は,胡椒を筆頭として丁子,肉荳蔲,肉桂のヨーロッパへの輸入であった。二つの東インド会社が本国へ輸入した香辛料を概観すると,17世紀の前半では胡椒,丁子,肉荳蔲で全輸入商品の70~75%を占めていた。…
…彼らの中でとくに有力な者はナーヤカと呼ばれ15世紀以降には数県にまたがる地域を一円支配する領主となる者もいたし,また,ナーッタム,パーライヤッカーラン(ポリガール)と呼ばれる地主・小領主層も南インドの南部に現れた。
[イギリス東インド会社]
18世紀末からインドの直接支配を目ざしたイギリス東インド会社政府は,本国の近代的な地主制の観念を導入し,かつインド古代法典に基づき〈インドでは古来,国家が最高の土地所有権者である〉という論拠に立って新たな徴税制度を実施した。その結果,旧来,土豪地主・領主層であったザミーンダールは,その行政権,軍事権を奪われ,単なる地租徴収請負人の地位に落とされた。…
…他方,中世以来の地中海経由の香料貿易は,急に消滅したのではないが,ポルトガルに代わってオランダがアジア貿易を握る17世紀にはほとんど意味がなくなり,イタリア諸都市も決定的に没落する。 1602年に,これまであった多数の会社を併合して連合東インド会社を設立,圧倒的な資本力によってモルッカ諸島(香料諸島)を含むインドネシアを支配したオランダは,1621年西インド会社をも設立して西半球にも進出した。この結果,17世紀前半には,アントワープに代わってアムステルダムが世界経済の中心となった。…
…1512年にポルトガル人が来攻し,73年にアクバル大帝が攻略してから,ムガル帝国第一の貿易港,またメッカ巡礼の門戸として栄えた。1612年にはイギリス東インド会社の最初の商館が設置され,87年にボンベイに移るまで同会社のインドにおける拠点となった。当時はキャラコなどの綿布,綿糸を輸出した。…
…1700万ポンド(重量)の茶の滞貨で経済的に困窮する東インド会社の救済のため,イギリス議会が1773年5月10日に制定した法律。同法は,北アメリカ植民地向けの茶には本国輸入時の関税を全額東インド会社に払い戻し,かつ,アメリカでは競売ではなく,同社の代理人を通じて直接販売する独占権を与え,オランダの密貿易茶の輸入阻止をも目的とした。…
…1757年に行われたインドのベンガル太守(ナワーブ)とイギリス東インド会社軍との戦闘。東インド会社の得た会社取扱商品の自由通関権と会社職員などによるその乱用は,ベンガル太守の財政収入に打撃を与え,太守シラージュ・ウッダウラと会社との対立が強まっていった。…
…アングロ・マイソール戦争とも呼ばれる。南インドの植民地化をねらうイギリス東インド会社軍と,それに抗したマイソール王国のムスリム支配者ハイダル・アーリー,ティプ・スルターン父子との間で続けられた戦争。1767‐69年,80‐84年,90‐92年,99年の4次にわたる戦争の結果,ティプの敗北によってイギリスの南インド支配が決定的となった。…
…市の南部には16世紀中期以来ポルトガルのインドにおける根拠地の一つとなったサン・トメSan Thomé(イエスの十二弟子の一人トマスが福音伝道のためインドに来住し,殉教後ここに埋葬されたという伝承をもつ)があるが,現在の市の直接的な起源は1639年に始まる。同年イギリス東インド会社は,コロマンデル海岸における根拠地マスリパタムがゴールコンダ王国に脅かされるに至ったため,同地に代わる新たな根拠地として,マドラサパトナムを取得した。翌40年にはフランシス・デイによって,中央の商館を取り囲む二重の城壁をもつ要塞の建設が開始された。…
…ムラカ王国はジョホールに移り,ジョホール王国となった。ジョホール王国は国際貿易で繁栄したが,この間にポルトガルの植民地であったムラカは1641年にオランダ東インド会社に占領された。18世紀に入るとスラウェシからのブギス族の移住もあって,半島にジョホール,パハン,クランタン,トレンガヌ,ペラ,ケダ,スランゴールの諸王国が分立した。…
…また,オランダ人はきちょうめんで,事をなすに当たっては慎重,計画的で決して功をあせらない。きちょうめんさは,たとえば東インド会社の帳簿,日誌,本店とアジア各地との往復文書などの綿密で膨大な記録とその驚くべき保存ぶりなどからもうかがえよう。第2次大戦中ドイツ空軍の爆撃で全壊したロッテルダム市中心街を先見的な都市計画によってみごとな都市空間につくりあげたことは,オランダ人の計画性の好例であり,戦後オランダの国土計画や社会計画などを指導した中央計画局の存在は国際的に有名になった。…
…1585年北ヨーロッパ最大の国際的貿易港アントワープがスペイン軍に占領されると,この港の大商人たちはアムステルダムに移住し,巨額の資本と国際的な取引関係をもたらし,アムステルダムの貿易活動はバルト海に加えて,スペイン,イタリア,レバントへと一挙に拡大した。1602年成立した連合東インド会社はアジア貿易に進出し,ジャワ島のバタビア(現,ジャカルタ)を拠点に,ポルトガル人が1世紀にわたって築き上げたコショウ貿易の独占的地位を奪った。当時の対日貿易においては,ポルトガル,イギリスを抑えたオランダが,ヨーロッパ諸国中,唯一の相手国であった。…
…江戸時代平戸および長崎にあったオランダ東インド会社の日本支店。1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号が豊後に漂着したが,09年オランダとの国交が開かれたとき商館が平戸に置かれた。…
…オランダがその植民地としていた現在のインドネシア共和国全域(旧ポルトガル領チモールを除く)に与えていた名称(オランダ語ではNederlandsch‐Indiëと書き,多くの場合〈東〉という語は入れない)。すでに18世紀ごろから,オランダ東インド会社の公式文書にこの名称が用いられているが,名実ともにインドネシア全体を含むに至ったのは1915年以後とされる。 東インドに初めて到達したオランダ船は,1596年6月,ジャワ島西部のバンテン港に停泊したコルネリス・ド・ハウトマンの船隊である。…
…そして,株式を株券という有価証券に表章しその譲渡を自由としていることは,この資本維持の原則のため,出資の払戻しができない点の不都合を解消し,株主の投下資本の回収を株式譲渡という方法で可能にするためである。
[沿革と最近の動向]
株式会社の起源についてはいろいろの説があるが,後述のようにオランダ東インド会社(1602設立)等の植民公社を起源とみるものが多い。当初は,国王の特許状によって設立され,経営も官吏・大株主が専制的に行ったが(特許主義),しだいに私的な民主的性格のものが現れ,1807年のフランス商法典は,株式会社に関する一般的な規定をおくに至った。…
…他方,中世以来の地中海経由の香料貿易は,急に消滅したのではないが,ポルトガルに代わってオランダがアジア貿易を握る17世紀にはほとんど意味がなくなり,イタリア諸都市も決定的に没落する。 1602年に,これまであった多数の会社を併合して連合東インド会社を設立,圧倒的な資本力によってモルッカ諸島(香料諸島)を含むインドネシアを支配したオランダは,1621年西インド会社をも設立して西半球にも進出した。この結果,17世紀前半には,アントワープに代わってアムステルダムが世界経済の中心となった。…
…ムラカ王国はジョホールに移り,ジョホール王国となった。ジョホール王国は国際貿易で繁栄したが,この間にポルトガルの植民地であったムラカは1641年にオランダ東インド会社に占領された。18世紀に入るとスラウェシからのブギス族の移住もあって,半島にジョホール,パハン,クランタン,トレンガヌ,ペラ,ケダ,スランゴールの諸王国が分立した。…
※「東インド会社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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