東条村
ひがしじようむら
[現在地名]上野市東条
坂之下村の東。村の西部より柘植川の東条橋を渡り南下する道は、南北線に約五度東傾の条里の道で、俗称サシガネの辻を経て羽根村に至る。「伊水温故」には当村と西条村を府中というとあり、古代国府に関係の深いことを物語る。川南の河岸段丘(比高一・五―二メートル)が東の佐那具村下川原辺りより西条村川久保辺りまで続き、段丘上が万町の沖条里である。現国道二五号より約一メートル下の田の中に旧河道に架かっていた百町橋の石橋が現存し、いわゆる国府の湊であったと思われ、上乗名瀬・上荒堀の地名が残る(→印代村)。
東条村
ひがしじようむら
[現在地名]本城村東条
松本藩領会田組三四ヵ村の一村で、宝暦年間(一七五一―六四)から坂北組に属する。西は西条村、南西は乱橋村、南東は大沢新田村に接する。立峠以北のいわゆる筑北盆地の南部を流れる東条川周辺の村で、北に青柳城山、遠くに麻績の聖山を眺望する。東条川は村の中を大沢新田村の河鹿沢方面から西に流れくだり、麻績川に合する。
東条村
ひがしじようむら
[現在地名]上田市大字住吉
神科台地北部で、東太郎山南麓にあたり、金剛寺・長島の集落を含む一帯。東は伊勢山村、西は大久保村・房山村、南は染屋村(以上現上田市)、北は峠を越え曲尾・軽井沢村(いずれも現小県郡真田町)と境をなす。
元和八年(一六二二)真田氏に代わった仙石氏に幕府代官が渡した小県郡上田領并河中島残物共高石帳(仙石文書)に「四百三拾三貫九百三拾八文、高千七拾壱石八斗弐舛五合、東条村」とみえている。この後正保四年(一六四七)信濃国絵図高辻、元禄一五年(一七〇二)・天保五年(一八三四)の信濃国郷帳にも「東条村」とある。
東条村
ひがしじようむら
[現在地名]長野市大字若槻東条
北国脇往還に沿う街村。東は徳間村と耕地で境し、南は徳間村と、西南は檀田村・宇木村・上松村・伺去真光寺村・西条村の諸村と境し、西北は三登山にかかる。
村名は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「七百九拾四石三斗五升弐合 東条村」とある。中世は若月庄に属し、同庄内の二郷東条郷・西条郷の一郷が東条村になったものと考えられる。
東条村
ひがしじようむら
[現在地名]長野市松代町東条
西は松代城下、南は牧内村、北隣は田中村があり、東は奇妙山や清滝の名所のある山麓に展開する村。古代の積石塚、合掌塚が多い。
東条の初見は熊野神社文書の永正四年(一五〇七)二月の条で、この時村内皆神山山麓の大日寺が建立され、祝家吉が大日如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩坐像を造立したことが胎内銘にみえる。「信州埴科郡英田庄東条群神山大日寺弥勒院」の記載から、この地方が神家系の祝家吉が支配したこと、東条が英多庄の一部であったことが知られる。その後、東条の称は諏訪神社の造宮史料にもしばしば現れる。永禄五年(一五六二)の守矢文書には武田晴信が東条之郷を諏訪社上社頭役と定め、同一二年の御頭役請執帳にも東条之郷に三之御柱頭役を課している。
東条村
ひがしじようむら
[現在地名]佐屋町東条
西は西条村、北は落合村に接し、市江大新田(旧市江村の大半)のうちの大小の新田が交錯してなった小村。「徇行記」によれば、概高三九一石余はすべて成瀬隼人正の給知。田は一八町九反二畝余、畑は四町二反二畝余。慶長六年(一六〇一)までは西保村・東保村・西条村とともに伊勢長島藩領三千石のうちの一村。
東条村
ひがしじようむら
[現在地名]大治町東条
東は新川を隔てて八ッ屋村に接する。「徇行記」によれば、概高二八〇石余のすべてが藩士二人の給知で、田五町一反二畝余・畑一四町一反八畝余。「寛文覚書」に戸数三四、人数一八一とある。「徇行記」は「此村落ハ萱津渠ノ西ニ農屋建ナラヒ一村立ノ所也、竹木茂リ村立大体ヨシ、高ニ準シテハ戸口多ク、村中田畝ハカリニテハ作リタラサル故ニ他村ノ田畝ヲモ承佃スト也、小百姓ハカリニテ高持平均ノ所ナリ、地高ニシテマツチ沙交リナリ」とし、曹洞宗の東昌寺を記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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