長島村(読み)ながしまむら

日本歴史地名大系 「長島村」の解説

長島村
ながしまむら

[現在地名]江戸川区東葛西ひがしかさい一―六丁目・同八―九丁目・中葛西なかかさい一―八丁目・西葛西にしかさい四―七丁目など

桑川くわがわ村の南に位置し、東は江戸川を挟み下総国当代島とうだいじま(現千葉県浦安市など)、南は東宇喜田ひがしうきた村、西は西宇喜田村。中世は葛西御厨に含まれ、下総香取神宮の灯油料所として関が設置されていた。応安五年(一三七二)一一月一八日、二条師良は「長嶋関」を先例どおり管領するように大禰宜大中臣長房に命じている(「藤原氏長者宣写」香取旧大禰宜家文書)。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「長島 二十七町 公田四(丁)七反」とある。

長島村
おさじまむら

[現在地名]瀬高町太神おおが

井手上いでのうえ村の南、南流してきた大根だいこん川が飯江はえ川に合流する地点の微高地にある。東は海津かいづ(現高田町)、南は三池みいけ岩津いわつ(現同上)。天正六年(一五七八)頃と推定される一〇月一八日付田尻彦七郎知行坪付并同了哲書状(田尻家文書/佐賀県史料集成七)には「長嶋」二五町とあり、田尻鑑種から田尻彦七郎に宛行われている。いっぽう年月日未詳の蒲池鎮並本地そのほかを記した村付(田尻家譜/大和町史資料編)には黒木領と注記して「廿五町 をさ嶋」とある。

長島村
ながしまむら

[現在地名]豊中市豊南ほうなん西にし一―五丁目

はま村の南、小曾根おぞね村の西、天竺てんじく川の下流低地の東岸にあって、対岸には野田のだ村・三屋さんや村の集落がある。東長島ひがしながしま村とも称したが(「豊島郡誌」今西家文書)、これは西長島村(三屋村)に対したためである(大阪府全志)。中世には榎坂えさか郷小曾禰村に含まれ、近世にも同村の枝郷(元禄郷帳)。文禄三年(一五九四)の検地では高一七五石余(宝暦八年「村明細帳」今西家文書)。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図には長島がみえるが単独の村高は不明。

長島村
ながしまむら

[現在地名]松任市長島町

内方新保うちかたしんぼ村の北に位置。応仁二年(一四六八)一〇月一日、富樫鶴童丸(政親)は、応仁の乱で西軍に属し「長島之内」ほかを押領していた額丹後守から押領地を取戻して祇陀ぎだ(現吉野谷村)に還付、国役・諸公事を免除した(「富樫鶴童丸判物」祇陀寺文書)。「天文日記」天文七年(一五三八)九月九日条によると、幕府政所執事伊勢貞孝は、先に長島など六ヵ村について幕府御料所として白山長吏に奉書を下したが、食違いがあって京都相国しようこく寺興禅軒と契約したので、本願寺証如に申付を望んでいる。

長島村
ながしまむら

[現在地名]野洲町長島

大篠原おおしのはら村の北にあり、東辺を流れる光善寺こうぜんじ川が入町いりまち村との境をなす。中心部に長嶋神社があり、その周りを一町余の森が囲んでいる。社叢の北部に集落が集中。耕地溜池灌漑によって開かれた不規則な地割で、小さな溜池が散在している。長嶋神社の由緒書(県庁所蔵文書)には「建武□年ノ頃当時本村領主今川範国」とあり、今川氏歴代の位牌を祀る浄土宗西蓮さいれん寺の御位牌之縁起にも「在京之飼料」と記され、室町時代には今川氏の領地であったとされる。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に永島四八〇石余がみえる。

長島村
ながしまむら

[現在地名]佐原市長島

西代につしろ(現茨城県東村)の枝村笄島こうがいしまの東に位置し、東に丸江まるえ湖がある。しん島に形成された十六島じゆうろくしま新田の一つ。慶長一〇年(一六〇五)篠原しのわら村・津宮つのみや村から渡された谷地本田六町歩を開発して成立し、元和(一六一五―二四)の家数一五(正徳四年「根郷五箇村谷地御定納記」伊能家文書)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図では、利根川横利根川および同川から与田よだ浦へ続く河川に囲まれた島状砂洲の西部に「長嶋」とみえる。

長島村
ながしまむら

[現在地名]二宮町長島

下大曾しもおおぞ村の南、平坦低台地上に位置し、東は谷田貝やたがい村。寛永一六年(一六三九)の水谷勝隆安堵状(全水寺文書)に村名がみえ、当村のうち一五〇石が谷田貝村全水ぜんすい寺に寄進安堵されている。元和五年(一六一九)の下館藩領村高之留(坂入慶子文書)に村名がみえ高八一九石余。慶安郷帳では田高四四一石余・畑高三七七石余、幕府領。延宝四年(一六七六)旗本設楽領・幕府領の二給となる。元禄郷帳では幕府領と旗本設楽・森川・三宅領の四給。改革組合村では前出旗本三氏領と下総結城藩領の四給で、家数三一。

長島村
ながしまむら

[現在地名]根尾村長島

天神戸てんじんどう村の北に位置し、根尾西谷ねおにしたに川左岸段丘平地に集落があり、越前街道に沿っている。正保郷帳によれば田一石余・畑四三石余・紙桑木高一六石余・山年貢五石余。貞享二年(一六八五)大垣藩内検により村高九〇石余となった(大垣領村々高帳)。安政五年(一八五八)の根尾筋村々家数人数差引帳(国島文書)では家数一六・人数九二。

長島村
ながしまむら

[現在地名]岩室村西長島にしながしま

北流する西にし川と川に挟まれた低地にあり、東は横曾根よこぞね村。承応―明暦(一六五二―五八)頃開発され、元禄郷帳に舟越ふなこし村枝郷として長島新村とみえ、高九一石四斗余。天保郷帳では一九〇石三斗余と高が増加している。

長島村
ながしまむら

[現在地名]越谷市長島

西新井にしあらい村の南西に位置し、西は御菜ごさい川を挟んで釣上かぎあげ新田(現岩槻市)、南西は綾瀬川を挟んで戸塚とづか(現川口市)に対する。集落は御菜川沿いの旧綾瀬川が形成した自然堤防上に連なる。もとは西新井村の新田であったが、元禄八年(一六九五)の検地に際し独立村となった(風土記稿)

長島村
ながしまむら

[現在地名]月潟村東長島ひがしながしま

釣寄つりよせ村の南に連なる。村上藩領で明暦三年(一六五七)総検地を受け、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳は一七五石二斗余。元禄郷帳は木滑きなめり村枝郷とする。同村児玉勘左衛門が庄屋を兼帯していたが、明暦三年以降弟仁兵衛が分家し当村庄屋となった。

長島村
ながしまむら

[現在地名]芳賀町北長島きたながしま

西水沼にしみずぬま村の北東、野元のもと川沿いに立地する。東は与能よのう村、北は東水沼村。慶安郷帳に村名がみえ、田七七石余・畑六石余で宇都宮藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報