生没年不詳。江戸後期の浮世絵師。寛政(かんせい)6年(1794)5月から翌年正月まで、当時上演された歌舞伎(かぶき)狂言に取材して多くの役者絵版画(一部相撲(すもう)絵)を集中的に制作、その後は浮世絵界との関係を絶って、消息はほとんど伝わらない。「謎(なぞ)の浮世絵師」として関心をひかれ、同世代の有名・無名の人物に仮託する想像説が数多く提出されてきたが、いずれも根拠が薄弱で、仮説の域を出ていない。
在世期に近い信ずべき文献資料としては、大田南畝(なんぽ)原撰(せん)の『浮世絵類考』にみえる「写楽 これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが あまりに真を画(えが)かんとてあらぬさまにかきしかば 長く世に行われず 一両年にして止む」の記事や、八丁堀地蔵橋居住と文政(ぶんせい)元年(1818)以前に死没の事実を伝える『江戸方角分(ほうがくわけ)』の報告例などが、わずかにあげられるにすぎない。幕末の斎藤月岑(げっしん)は「俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波(あわ)侯の能役者也(なり)」と考察(『増補浮世絵類考』)しており、注目されるが、いまだ確認されていない。
版画作品は総計142枚(143~145枚と学者により数が異なる)が現存しており、いずれも蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)を版元としている。それらの作画期は、取材狂言の上演時期に応じて、次のような4期に区分される。
〔第1期〕寛政6年(1794)5月 計28枚
すべて大判の黒雲母摺(きらずり)による役者大首絵(半身像)28枚。落款(らっかん)は「東洲斎写楽画」。
〔第2期〕寛政6年7~8月 計38枚
8枚の大判雲母摺と30枚の細判はすべて全身像の役者絵。落款は「東洲斎写楽画」。
〔第3期〕寛政6年11月~閏(うるう)11月 計64枚
細判全身像役者絵47枚、間判(あいばん)役者大首絵11枚、間判役者追善絵2枚、間判相撲絵1枚、大判相撲絵3枚(三枚続)。落款は原則として「写楽画」となる。
〔第4期〕寛政7年(1795)正月 計12枚
細判全身像役者絵10枚、間判相撲絵2枚、落款は「写楽画」。
これらのうち、もっとも優れた内容をもつのは第1期の大首絵連作であり、妥協のない似顔表現と大胆なデフォルメ、戯画的な誇張の奥の深刻な心理描写など、前例のない個性的な役者絵となっている。以後、世の不評に逆らって出版点数を増大させるが、作品の質は急速に衰えていった。写楽の役者似顔絵の形式的な模倣は歌舞伎堂艶鏡(えんきょう)(1749―1803、歌舞伎狂言作者2代目中村重助(じゅうすけ)の画名)によってなされているが、むしろ本質的な理解は、先輩格の勝川春英(しゅんえい)や歌川豊国(とよくに)、さらには美人画家の喜多川歌麿(うたまろ)などにより深められている。
[小林 忠]
『鈴木重三著『写楽』(1966・講談社)』▽『瀬木慎一著『浮世絵師写楽』(1970・学芸書林)』▽『山口桂三郎著『浮世絵大系7 写楽』(1973・集英社)』▽『小林忠編『日本の美術139 写楽』(1977・至文堂)』▽『Julius KurthSharaku (1910, R. Piper & Co., Munich)』
江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。1794年(寛政6)5月から翌95年1月までの正味10ヵ月間(途中閏月がはさまる)を活躍時期として,役者絵,相撲絵の版画140余図という多くを発表。当時おおいに人気を得たらしいが,その後は浮世絵界との交渉をまったく絶ってしまった謎の絵師。《増補浮世絵類考》(斎藤月岑編)に〈俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀 阿波侯の能役者也〉と記されているところから,一時阿波蜂須賀侯お抱えの能役者説が行われたが,その後これを否定する見解が支配的となり,葛飾北斎など当時の知名人に仮託する諸説が提出されてきた。ところが近年〈写楽斎〉と号する浮世絵師が八丁堀の地蔵橋辺に居住していたことが知られるようになり(《諸家人名江戸方角分》),旧説への関心が高まりつつある。ともあれ写楽の役者絵,相撲絵は,すべて蔦屋重三郎(蔦重)を版元として刊行されており,喜多川歌麿や十返舎一九を育てたと同じように,蔦重の炯眼なればこそ発掘し得た異色の新人であった。その作風は,写実的な役者絵表現の基本を勝川派に学び,これに流光斎など上方絵の作風も参考として,役者の似顔と演技の特徴とを大胆に,印象深くとらえるものであった。理想的な様式美を追う従来の役者絵とは異なり,役者の素顔の上に作中人物としての性格描写を重ねる残酷なまでのリアルな表現は,当時の歌舞伎ファンに衝撃を与え一時的に歓迎されたが,やがて急速に人気は離反した。その間の事情を大田南畝原撰の《浮世絵類考》は〈歌舞妓役者の似顔を写せしが,あまりに真をかゝんとて,あらぬさまに書なせしかば,長く世に行はれず,一両年にて止ム〉と伝えている。
短い作画期はさらに次のように4期に区分されるが,そのうち第1期の雲母摺大首絵(きらずりおおくびえ)(半身像)が最もすぐれ,第2期の全身像がこれにつぐ。第1期は1794年5月都,桐,河原崎各座の狂言に取材した大判雲母摺の大首絵28図。第2期は同年7月都,河原崎両座,同年8月桐座の狂言に取材した,全身像二人立(ふたりだち)の大判雲母摺7図,同種一人立1図,一人立細判30図。第3期は同年11月前記3座の顔見世狂言と閏11月の都座の狂言に取材した58図(細判47,間判11)と役者(2世市川門之助,10月没)追善絵2図(間判),相撲絵4図(間判1,大判3)。第4期は95年正月の都,桐両座の狂言を描いた細判10図に相撲絵間判2図。以上合計142図(第4期の作かとする武者絵2点を入れ144図とする説もあり)の版画のほか,版下絵とされる役者群像9点と相撲絵10点の素描,および若干の肉筆画が報告されているが,写楽真筆と公認されるまでには至っていない。
執筆者:小林 忠
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(内藤正人)
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生没年不詳。寛政期の浮世絵師。伝歴は不明。1794年(寛政6)5月から翌95年1月にかけての約10カ月間(閏月を含む)に140余点の錦絵を制作。版元はすべて蔦屋(つたや)重三郎。内容は江戸三座の役者絵と,当時人気をよんだ子供の相撲取大童山を描いた相撲絵に限定され,作風から94年の夏狂言に取材した第1期,秋狂言に取材した第2期,顔見世狂言に取材した第3期,翌年1月の新春狂言に取材した第4期にわけられる。第1期は黒雲母摺(くろきらずり)の役者大首絵(おおくびえ),第2期は全身図で統一されており,第1期が最もすぐれ,しだいに画格の低下がみられる。
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…つづく安永(1772‐81)から天明年間にかけて,ことに春章とその一門である勝川春英や春好らを中心に役者絵の写実性が高められていった。そして春章没後2年目の1794年(寛政6)から歌川豊国が〈役者舞台之姿絵〉と題する全身像のシリーズを,同年5月からは東洲斎写楽が雲母摺(きらずり)大首絵の連作をそれぞれ発表,華々しくデビューした。似顔表現を理想化の装いの内にくるみこんだ豊国の役者絵は大衆的な支持を得るが,残酷なまでに実像の印象を伝えた写楽画は,話題となったが一般には受け入れられず,翌年早々にはこの天才絵師の作画は中絶されてしまう。…
※「東洲斎写楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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