朝日日本歴史人物事典 「松山守善」の解説
松山守善
生年:嘉永2.10.15(1849.11.29)
幕末から昭和の敗戦まで96歳の生涯を下級士族・下級官吏・弁護士として熊本に生きた人物。昭和8(1933)年,84歳のときにあらわした『自叙伝』は,この100年近い時代の日本人の心のおきどころをいつわらず書き記しためずらしい記録である。下級武士の家の第3子に生まれ14歳のとき,廃家だった松山家を再興して7石3人扶持を受けた。肥後(熊本県)勤王家の巨頭轟武兵衛,山田信道の拷問にたちあって,その毅然たる態度に敬意をもち,新政府成立ののち,両者の援助を受けた。勤王攘夷派の刺客河上彦斎を崇拝するに至り,はじめ敬神党に近づくが,そのおこした神風連の乱には参加せず,宮崎八郎らの民権運動にくわわるが熊本民権党の西郷の乱参加に同調せず,15等出仕の下級官吏としての身分を守り,父妻子を守る。しかし同志の多くが死んだことが心の負担となり役所をしりぞいて代言人となった。その後,キリスト教信者となって晩年をむかえた。旧同志の非難に対して彼はこうこたえたと自伝に記す。「我を生むものは父母,我を知るものは神,世人の褒貶我において何かあらん」。操守をタテマエとする旧士族の間にあって松山守善はその理想から遠い。しかし旧士族をふくめて幕末から明治・大正・昭和の日本人の多数派の精神の軌跡をつたえる。木下順二の初期の戯曲『風浪』のモデルのひとり。<著作>『自叙伝』
(鶴見俊輔)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報