松山守善(読み)マツヤマ モリヨシ

20世紀日本人名事典 「松山守善」の解説

松山 守善
マツヤマ モリヨシ

江戸時代末期〜昭和期の志士,弁護士 元・相愛社副社長。



生年
嘉永1年(1848年)

没年
昭和20(1945)年7月22日

経歴
熊本藩士の脇坂家に三男として生まれる。15歳の時に廃家だった松山家の家督を継ぎ、同家を再興獄吏を務めていた時に肥後勤王党の首領である轟武兵衛と山田信道の拷問に立ち会い、その毅然たる態度に感銘を受ける。明治2年斎藤求三郎の塾に入り敬神党の一員として遇され、佐久間象山の暗殺者として知られる河上彦斎の下で働くが、彦斎が刑死すると寄りどころを失い、上京。東京で新知識に触れ、民権論者に転向。7年帰郷、同志と植木学校を設立して講師兼会計方を務める。学校が閉鎖されると15等の最下級の官吏として裁判所に仕官、かつての同志たちが起こした神風連の乱や、西南戦争にも参加せず、官吏生活を貫く。11年下野して代言人(弁護士)となり、植木学校の残党が組織した相愛社の副社長に就任。23年第1回総選挙に出馬、当選するが、無効票が出たために失格となる。政友会の政客として以後も度々出馬したが、当選できなかった。同郷井上毅元田永孚が起草した教育勅語を酷評し、80歳を過ぎてなお依頼があれば遠方まで出向いて弁護に当たるなど、反骨精神の持ち主として知られた。昭和8年「自叙伝」を著す。木下順二の初期の戯曲「風浪」のモデルの一人とされる。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「松山守善」の解説

松山守善

没年:昭和20.7.21(1945)
生年:嘉永2.10.15(1849.11.29)
幕末から昭和の敗戦まで96歳の生涯を下級士族・下級官吏・弁護士として熊本に生きた人物。昭和8(1933)年,84歳のときにあらわした『自叙伝』は,この100年近い時代の日本人の心のおきどころをいつわらず書き記しためずらしい記録である。下級武士の家の第3子に生まれ14歳のとき,廃家だった松山家を再興して7石3人扶持を受けた。肥後(熊本県)勤王家の巨頭轟武兵衛,山田信道の拷問にたちあって,その毅然たる態度に敬意をもち,新政府成立ののち,両者の援助を受けた。勤王攘夷派の刺客河上彦斎を崇拝するに至り,はじめ敬神党に近づくが,そのおこした神風連の乱には参加せず,宮崎八郎らの民権運動にくわわるが熊本民権党の西郷の乱参加に同調せず,15等出仕の下級官吏としての身分を守り,父妻子を守る。しかし同志の多くが死んだことが心の負担となり役所をしりぞいて代言人となった。その後,キリスト教信者となって晩年をむかえた。旧同志の非難に対して彼はこうこたえたと自伝に記す。「我を生むものは父母,我を知るものは神,世人の褒貶我において何かあらん」。操守をタテマエとする旧士族の間にあって松山守善はその理想から遠い。しかし旧士族をふくめて幕末から明治・大正・昭和の日本人の多数派の精神の軌跡をつたえる。木下順二の初期の戯曲『風浪』のモデルのひとり。<著作>『自叙伝』

(鶴見俊輔)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松山守善」の解説

松山守善 まつやま-もりよし

1849-1945 幕末-昭和時代前期の武士,弁護士。
嘉永(かえい)2年10月15日生まれ。肥後熊本藩士。維新後,宮崎八郎らの民権運動にくわわり,裁判所勤務ののち代言人となる。明治23年第1回衆議院議員選挙に当選するが,選挙違反で失格。昭和20年7月22日死去。97歳。著作に「河上彦斎伝」。
【格言など】我を生むものは父母,我を知るものは神,世人の褒貶(ほうへん)我において何かあらん(「松山守善自叙伝」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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