松橋村(読み)まつばせむら

日本歴史地名大系 「松橋村」の解説

松橋村
まつばせむら

[現在地名]松橋町松橋

北の宇土うと松山まつやま(現宇土市)との境界には宇賀うが(岡岳、六五メートル)があり、その東方を小丘陵の上の原うえのはら台地が南へと延びる。台地の東端を大野おおの川の支流明神みようじん川が南流して沖積平野を形成し、曲野まがのや大野の各村と耕地を分ち合う。西は薩摩街道と大野川を境として宇土郡御領ごりよう(現不知火町)と接する。古くは上の原台地以西および以南の地域は海面下にあったが、海退現象や近世の干拓によって現在の地勢となった。古代は宇土郡の領域にあり、中世は八条院領豊田とよだ庄に属した。薩摩街道沿いの字三町みまち(現浦町)には熊野権現社(現松橋神社)があり、永承四年(一〇四九)神宮寺養海山宝成院地福寺(廃寺)とともに関白藤原道隆の創建と伝え(国誌)、道隆の寄進によって八条院領になった。「八代日記」天文六年(一五三七)八月二七日条に、「長唯(相良義滋)様松橋ニテ武顕(名和)ニ参会」とある。また永禄六年(一五六三)八月一八日条に「大風」と「八代庄内高塩」によって松橋では三二人が死亡したとみえ、さらに同七年一一月八日には相良氏豊福とよふく攻撃のあおりであろう放火に遭っている。


松橋村
まつはしむら

[現在地名]河北町谷地やち

谷地の西部に位置し、東は大町おおまち村、西は西里にしざと村に接する。支配は元和八年(一六二二)上山藩領、寛永四年(一六二七)以後幕府領。寛永一九年の高は「高千弐拾九石松橋、高五百九拾石松橋」とあり(最上記)二村に分けられている。寛文一一年(一六七一)の年貢割付帳(河北町立図書館蔵)では、松橋村上組六九四石余・松橋村下組一千一二九石余。延宝五年(一六七七)の最上拾ヵ領村々田畑高辻帳(同館蔵)では、松橋村上組は田高六五六石余・反別二二町一反余、畑・屋敷高五二石余・反別五町九反余、ほかに新田畑高一六石余がある。


松橋村
まつはしむら

[現在地名]燕市松橋

館野たての村の南に連なる。西は大通おおどおり川を境に庚塚かねづか新田村雀森すずめもり(現西蒲原郡吉田町)に接する。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に高七七石一斗余とある。同九年三条藩廃藩に伴い各村は幕府領になったが、当村は寛永七年(一六三〇)長岡藩領、同一一年に与板藩領となり、村高一一七石一斗(長岡の歴史)。明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)では石瀬組に属し、高一千一六八石一斗余。


松橋村
まつはしむら

[現在地名]猪苗代町中小松なかこまつ

中目なかのめ村の南、長瀬ながせ(酸川)西岸に位置し、西は猪苗代湖に面する。二本松街道脇道が南北に貫通し、川東組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに松橋とみえ、高五一一石余。享保三年(一七一八)には高六〇五石余、家数五〇、男一一〇・女一〇七、馬二六、天明六年(一七八六)には高六〇三石余、家数三二、男六三・女六〇、馬一四(「留帳」小林家文書)。「新編会津風土記」によると家数は二八。


松橋村
まつはしむら

[現在地名]頸城村松橋

榎井えのい村の北に位置し、東に榎下えのした新田、西に中島なかじま新田がある。北方かた川が西流する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では当村の南に川が、北に北国街道が描かれ、「黒江ヨリ松橋迄七里」と記される。この絵図に「御料所此外拾方分松橋村 下」とみえ、本納四三石二斗五升二合・縄高八六石七斗一合、家五軒・二三人とある。正保国絵図に高二二〇石余とある。天和三年郷帳によれば高二一八石余、うち野高四斗七升三合であった。


松橋村
まつはしむら

[現在地名]白根市松橋

なかくち川右岸に立地し、南北を塩俵しおだわら新田に接する。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に「百弐拾石六升 松橋村吉江村 かなまき」、同一七年の御蔵納同払方帳(同書)に「卅三石九斗 松橋村」とある。近世を通じ新発田藩領。正保国絵図は一八〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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