板倉村(読み)いたくらむら

日本歴史地名大系 「板倉村」の解説

板倉村
いたくらむら

[現在地名]板倉町板倉・大蔵おおくら

谷田やた川と板倉沼の間、邑楽台地上に立地する。東は海老瀬えびせ村、西は岩田いわた村・浮戸うきど村、南は飯野いいの村。村名は龍蔵寺縁起(雷電神社蔵)によると、坂上田村麻呂が蝦夷征討の帰途戦勝祈願がかなったとして、伊豆板倉山の桂木を運んで堂塔を建立したことに由来するという。永仁元年(一二九三)一〇月六日の二階堂行貞奉書(伊豆山神社文書)によれば「佐貫庄内板倉郷」が走湯そうとう(現静岡県熱海市の伊豆山神社)に寄進されている。「関八州古戦録」によれば、戦国時代末期、板倉には真下越前守がおり、館林の赤井但馬入道法蓮の被官であったという。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めの際、真下越前守は北条氏規の配下として館林城を守っている(同書)

近世初めは館林藩領。寛文郷帳に田方九〇石七斗余・畑方四〇八石八斗余とあり、田方に「水損」と注記される。

板倉村
いたくらむら

[現在地名]緑区板倉町、茂原市板倉飛地いたくらとびち

大椎おおじ村の南にあり、村田むらた川が流れる。もとは竹河原たけがわらと称していたが、長享期(一四八七―八九)土気とけ城主酒井定隆が備荒用の板倉を建立したことに由来するという。同城主四代の胤治が築いたという砦は明らかでないが、川東のみや堀之内ほりのうちなどの一帯に板倉砦、その北に谷津を隔ててむかい砦を想定している。仏像伽藍記(藻原寺文書)の貞和二年(一三四六)の記事に鋳師大工の住所としてみえる土解とけ堀内ほりのうち郷を当地堀之内に比定する説がある。江戸時代は上総国市原郡の内であるが、文禄三年(一五九四)の上総国村高帳では山辺やまべ郡内に村名がみえ、高三五二石余。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では大椎組に属し、旗本春田領。

板倉村
いたくらむら

[現在地名]足利市板倉町

南西流する松田まつだ川流域に位置し、南西部で粟谷あわのや川が合流する。東端の大岩おおいわ山から西へ峰々が連なり、北東は松田村。足利系図(尊卑分脈)によると、足利泰氏の次男としてみえる兼氏(のちの義顕)は板倉二郎とも称し、一時足利庄内の当地に居住していたとされる(近代足利市史)。義顕は足利幕府に重用された渋川氏の祖。現在、要害山なる小丘頂部を占める板倉城跡は、鎌倉後期に義顕が物見砦として築城したと伝え、雷電らいでん神社の社地となっている。寛永一〇年(一六三三)には下総古河藩領、正保元年(一六四四)分家の土井利房領となる。

板倉村
いたくらむら

[現在地名]岡山市吉備津きびつ

宮内みやうち村の北西に位置する。山陽道が東西に抜け、西端で松山まつやま往来が北西へ、庭瀬にわせへの道が南に分岐する交通の要地で宿場が形成された。「和名抄」賀陽郡板倉郷に比定され、中世には吉備津神社と深いかかわりを有した板倉郷があった。寛元三年(一二四五)一〇月の譲状をはじめ、同社に伝える神主賀陽氏の譲状に郷名が散見する。室町中頃には内宮日別御供田二段二五代があった(「内宮日別御供田坪付断簡」吉備津神社文書)。郷内には脇本村吉野村などがあった(応永一四年五月二五日「安法師畠地沽券」同文書など)。なお応永元年(一三九四)仮託の吉備津宮惣解文写(同文書)では、板倉郷として油四〇〇石を紀親恒が進上している。

板倉村
いたくらむら

[現在地名]婦中町板倉

神通川中流左岸と井田いだ川中流右岸の間に位置し、村の東側を神通川分流御門みかど川が流れる。南は蔵島ぞうしま村、西は砂子田すなごだ村。正保郷帳では坪野つぼの村・海川原うみかわら村を合せて高七六四石余、田方四九町一反余・畑方一町八反余、新田高一四七石余。享保六年(一七二一)の高五三二石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高五三二石余・定免三ツ五歩四厘、新田高五〇石余・平均免九歩七厘余、銀納畑六五二歩・代銀六匁八分七厘、土手銀納四匁五分があり、定小物成銀一一匁(高物成品々手鏡)。文政八年(一八二五)には奥田組に属した。幕末には古高五三二石余・免三ツ六歩、畑作古高五七石余・免二ツ六歩、他の畑作古高二石七斗余・免一ツ八歩、小物成は土手銀納六匁九分五厘・鮎川役一一匁(古高免小物成銀等書上)

板倉村
いたくらむら

[現在地名]丸岡町板倉

丸岡城下の南東方向に位置する農村。天正一三年(一五八五)閏八月二二日の堀秀政知行安堵状(多賀家文書)に多賀源介の所領として「一、百四拾九石七斗七升 四柳内板倉出作」とある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「高ほこノ郷」の一部であった。村名は正保郷帳にみえ、田方六五九石余・畠方一四三石余。すべて丸岡藩領。天保九年(一八三八)の御領分高免牛馬男女竈改帳(高椋家文書)によれば、家数三〇、人数一五六、馬一二頭。

富山県東礪波ひがしとなみ城端じようはな町に伝来する元禄六年(一六九三)の組中人々手前品々覚高帳によると、越前国板倉村出身者として新助・次郎兵衛・九郎兵衛・九郎右衛門・長兵衛・次兵衛・孫助の七名がみえ、孫助を除く六名は慶長九年城端に来住して「越前屋」を称し絹商などに従事していた。

板倉村
いたくらむら

[現在地名]下郷町栄富えいとみ

萩原はぎわら村の西、阿賀川支流戸石といし川南岸の河岸段丘上に立地。みやまえ名無塚ななしづかの段丘上に縄文土器が出土する遺跡がある。南山御蔵入領楢原組に属する。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では楢原ならはら郷のうちに村名がみえる。貞享二年(一六八五)の「楢原郷地下風俗覚書」によると、鎮守鬼渡おにわたり神社の神が嫌うため胡麻をつくらず、茅を織り畳を製造、七畳から一〇畳を金一分で売っていた。元禄四年(一六九一)の万覚書帳(下郷町史資料集)によれば高一〇五石、反別田四町余・畑一三町七反余、家数一四・竈数一六、うち水呑・山伏二、人数九一、馬一一、役漆木四七本。

板倉村
いたぐらむら

[現在地名]尾西市三条さんじよう

日光につこう川の西沿いにある。「神鳳鈔」に「二宮御母板倉御厨五十丁」とあり、伊勢神宮領であった。高三二四石六斗八合、田畑合わせて二六町二反一畝余は八名の尾張藩士の給知(天保村絵図)。同絵図には慶安元年(一六四八)に八石八斗四合(畑八反八畝余)、寛文九年(一六六九)に一五石九斗四升一合(田七畝余・畑一町八反余)、宝暦元年(一七五一)に一石二斗八升(畑二反一畝余)、天保四年(一八三三)に二斗九升九合(畑五畝余)の新田を開き、すべて尾張藩の蔵入地とされてきた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報