日本歴史地名大系 「板倉村」の解説
板倉村
いたくらむら
近世初めは館林藩領。寛文郷帳に田方九〇石七斗余・畑方四〇八石八斗余とあり、田方に「水損」と注記される。
板倉村
いたくらむら
板倉村
いたくらむら
板倉村
いたくらむら
板倉村
いたくらむら
神通川中流左岸と
板倉村
いたくらむら
丸岡城下の南東方向に位置する農村。天正一三年(一五八五)閏八月二二日の堀秀政知行安堵状(多賀家文書)に多賀源介の所領として「一、百四拾九石七斗七升 四柳内板倉出作」とある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「高ほこノ郷」の一部であった。村名は正保郷帳にみえ、田方六五九石余・畠方一四三石余。すべて丸岡藩領。天保九年(一八三八)の御領分高免牛馬男女竈改帳(高椋家文書)によれば、家数三〇、人数一五六、馬一二頭。
現富山県
板倉村
いたくらむら
板倉村
いたぐらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報