小説家。明治36年12月31日下関(しものせき)生まれ(出生日、生誕地ともに異説あり)。本名フミコ。行商人宮田麻太郎を父に林キクの私生児として届けられた。1910年(明治43)母は離婚し翌年沢井喜三郎と結婚、一家は九州を行商して歩き、芙美子は転校を重ねた。1915年(大正4)広島県尾道(おのみち)に落ち着き、1922年尾道市立高等女学校卒業。卒業後、愛人岡野軍一を頼って上京、職を転々としていわゆる放浪記時代が始まった。1924年友谷静栄(ともたにしずえ)と詩誌『二人』創刊。俳優田辺若男や詩人野村吉哉(よしや)と同棲(どうせい)し、アナキスト詩人岡本潤、壺井繁治(つぼいしげじ)らを知る。1926年画家修業中の手塚緑敏(てづかろくびん)と結婚、芙美子のアナーキーな生活はここにようやく安定を得た。1928年(昭和3)『女人芸術』に『放浪記』連載、好評を博し、1930年『放浪記』出版、たちまちベストセラーとなり『続放浪記』を出版、出世作となった。同年処女詩集『蒼馬(あおうま)を見たり』を出す。この年中国を旅行。1931年『風琴と魚の町』『清貧の書』を発表、作家としての地位を確立した。この年欧州に旅行。『泣虫小僧』(1934)、『牡蠣(かき)』(1935)など、自伝的な作風を突き抜け本格的な客観小説に成功した。『稲妻』(1936)のあと、従軍記『戦線』(1938)、『北岸舞台』(1939)などを発表、報道班員となって南仏印(フランス領インドシナ)に滞在、この間短編を書き継いだ。
戦後は一連の反戦的な作品を残す一方、『うず潮』(1947)、『晩菊』(1948。女流文学者賞受賞)、『茶色の眼(め)』(1949)などを発表、『浮雲(うきぐも)』(1949~1950)の連載を始めた。1950年(昭和25)屋久島(やくしま)旅行に出たが、流行作家としての酷使に身体衰弱し、『めし』(1951)など連載中、昭和26年6月28日心臓麻痺(まひ)のため急逝した。詩に始まり私小説を経て自然主義的な散文作家に成熟した芙美子はプロレタリア文学台頭期にあっても思想的な共感を示さず、「人生はいたるところ木賃宿ばかり」の生い立ちに基づく実感を重視して、市井の哀歓、男女の心理を細叙した。
[橋詰静子]
『『林芙美子全集』全23巻(1952~1953・新潮社)』▽『板垣直子著『林芙美子』(1956・東京ライフ社)』▽『平林たい子著『林芙美子』(1969・新潮社)』
昭和期の小説家,詩人
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
小説家。山口県生れ。本名フミコ。母キクの私生児として誕生。各地を転々と放浪しながら育ち,1922年尾道市立高女を卒業。上京して,女中,露天商,女工,女給など各種の職業を遍歴しながら詩や童話を書く。アナーキスト詩人萩原恭次郎,岡本潤らと交わり,平林たい子の小説が《大阪朝日新聞》の懸賞に当選したことに触発され,《放浪記》(1928-29)を《女人芸術》に発表。これが改造社から単行本として出るやベストセラーとなった。次いで《風琴と魚の町》《清貧の書》(ともに1931)など自伝的小説を書き,文壇の第一線の作家となっていく。戦時中は従軍ペン部隊の一員として,中国や南方各地に赴く。戦後も《晩菊》(1948),《浮雲》(1950-51)など哀愁を誘う抒情的作品をものしている。ヒューマニズムと清冽(せいれつ)な詩情にあふれた作風に特色があり,それが困難な時代を生きた多くの人々に共感をもって迎え入れられたといえる。
執筆者:関口 安義
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1903.12.31~51.6.28
昭和期の小説家。本名フミコ。山口県出身。私生児として生まれ,幼少期から行商の旅で各地を渡り歩き貧窮のなかに育つ。上京して職を転々とし,アナーキストの詩人たちと知り合い影響をうけた。1929年(昭和4)詩集「蒼馬を見たり」を出版,翌年には自作の詩をいれた自伝的日記体小説「放浪記」が刊行されて大ベストセラーになった。その後「風琴と魚の町」「牡蠣(かき)」「稲妻」「晩菊」「浮雲」など数多くの作品を発表。「林芙美子全集」全16巻。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
… 1930年代に入ると大衆文学は時代物,現代物,推理物をふくむ幅の広さと多様さを持ち,昭和前期の繁栄を競い合う。1人で3役をこなす文壇のモンスター林不忘・牧逸馬・谷譲次の精力的な活躍に象徴されるような多彩な動きが見られるが,その反面,大衆文学の新しい方向を模索する傾向もあり,吉川英治が《松のや露八》や《かんかん虫は唄ふ》などで示した方向は,やがて《宮本武蔵》(1936‐39)にひとつの収穫をもたらし,股旅ものから脱却した長谷川伸,子母沢寛らの史伝ものへの接近などを生む。直木三十五《南国太平記》,野村胡堂《銭形平次捕物控》,邦枝完二《お伝地獄》,三上於菟吉《雪之丞変化》,鷲尾雨工(わしおうこう)《吉野朝太平記》など,時代小説にも捕物帳,世話物,史伝物,実録物などの幅が生まれ,現代物にも芸道物,明朗物,西欧物,開化物などが現れ,佐々木邦,小島政二郎,山中峯太郎,木村毅,群司次郎正,北村小松,竹田敏彦,浜本浩らが活躍する。…
…隻眼隻手の超人的怪剣士・丹下左膳が,スクリーン上に初めて登場したのは1928年5月のことである。原作は林不忘(ふぼう)の《大岡政談・鈴川源十郎の巻》で,この映画化が3社競作となったため,日活版の大河内伝次郎,東亜キネマ版の団徳麿,マキノ版の嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)と,同時に3人の丹下左膳が出現した。3本の映画はいずれも《新版大岡政談》という題名で,監督は日活版が伊藤大輔,東亜キネマ版が広瀬五郎,マキノ版が二川文太郎である。…
… 文芸の資本主義化が成熟すると,今度は2人の作家が一つのペンネームで発表を続けたり(アメリカ推理作家E.クイーン),一作家が二つのペンネームで異なる作風のシリーズを続けたり(イギリス推理作家ディクソン・カー=カーター・ディクソンなど)する多作家が現れる。日本では,昭和初年に林不忘,牧逸馬,谷譲次の三つのペンネームで時代・現代小説を書き分けた長谷川海太郎が《一人三人全集》をのこした。また劇作家岩田豊雄は獅子文六の筆名で大衆小説を書き,太平洋戦争下に本名で書いた作品の戦争協力姿勢を問われてのちは,獅子の盛名に後半生をゆだねる生き方をした。…
※「林芙美子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加