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柄井川柳 からいせんりゅう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

柄井川柳
からいせんりゅう

[生]享保3(1718).江戸
[没]寛政2(1790).9.23. 江戸
江戸時代中期の前句付点者 (まえくづけてんじゃ) 。名,正道。通称,八右衛門。代々江戸浅草新堀端の名主。宝暦7 (1757) 年初めて万句合 (まんくあわせ) の点者となった。それ以前の経歴は未詳で俳人であったともいわれる。江戸の前句付点者のうち,時代性を察する早さ,選句の公平さと巧みさにより人気を得,以後 33年間にわたって江戸前句付点者の首位に立ち,230万句もの投句を集めた。その人気のゆえに,川柳の選句を特に川柳点と称した。自身の句はほとんど残っていない。明和2 (65) 年その選句のなかから前句付作者呉陵軒可有 (ごりょうけんあるべし) が 756句選び,前句抜きで『柳多留 (やなぎだる) 』として出版,いわゆる川柳というジャンルが確立した。柄井川柳の選句を収めた『柳多留』は 24編出版され,後継者に引継がれた。

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デジタル大辞泉の解説

からい‐せんりゅう〔からゐセンリウ〕【柄井川柳】

[1718~1790]江戸中期の前句付け点者。江戸の人。名は正通。通称、八右衛門別号無名庵。その選句を川柳点とよび、付句が独立して川柳とよばれるに至った。宝暦7年(1757)、「万句合(まんくあわせ)」を刊行、のち、その中から佳句を選んで「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」を出版。

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百科事典マイペディアの解説

柄井川柳【からいせんりゅう】

江戸中期の前句付点者。名は正通。通称八右衛門。江戸浅草新堀端に住み,竜宝寺門前町の名主。川柳の始祖。1757年前句付の点者となり,以後毎年,万句合興行を行い,評判をとる。
→関連項目柳多留

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

柄井川柳 からい-せんりゅう

1718-1790 江戸時代中期の前句付(まえくづけ)点者。
享保(きょうほう)3年生まれ。江戸浅草竜宝寺門前の名主をつとめるかたわら,宝暦7年初の万句合(まんくあわせ)を興行。明和2年付句(つけく)を抜粋した句集「柳多留(やなぎだる)」が人気を得,付句は短詩として独立し,点者の俳号から,のちに川柳とよばれた。寛政2年9月23日死去。73歳。名は正道。通称は八右衛門。別号に緑亭,無名庵。

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朝日日本歴史人物事典の解説

柄井川柳

没年:寛政2.9.23(1790.10.30)
生年:享保3(1718)
江戸時代の前句付点者。名は正通,通称は八右衛門。俳号を緑亭または無名庵,川柳という。柄井家はもと京都の住であったが,曾祖父柄井将曹の代に江戸に下る。38歳のとき,浅草新堀端の竜宝寺門前の名主の職を継ぐ。初め談林派の宗匠であったが,宝暦7(1757)年8月25日に初めての万句合を興行する。以後,毎年8月から年末まで月並興行をしていた。応募句の取次所を広義の江戸に限定し,都会的俳諧的な句を重視したため人気を得て,宝暦12年には応募句が1万句を越えるほどになった。こうしたなかで,もともと選者の俳号であったはずの「川柳」が,やがてはその作句自体をさすようになる。 とりわけ前句付作者川柳の名を高めたのは『俳風柳多留』初編である。これは明和2(1765)年,社中の呉陵軒可有(俳号木綿)が編集し,下谷竹町の版元星運堂こと花屋久治郎から出版された。慶紀逸編の雑俳集『武玉川』にならい,前句を省略し,縦小本とした画期的なものであった。これが独立詠としての川柳風狂句という新様式を生んで,川柳は川柳風狂句の祖と仰がれることになる。ただし,彼の作品は発句3句のみで,作品を持たぬ,点者としては特異な存在といえるだろう。呉陵軒は『柳多留』22編を編集した天明8(1788)年に没し,続いて川柳も寛政2(1790)年に没する。「木枯らしやあとで芽をふけ川柳」の辞世があるが,本人の作かどうか疑わしい。竜宝寺に葬られる。戒名,契寿院川柳勇緑信士。現在その命日は川柳忌と定められている。翌3年の『柳多留』24編には追善句合が載る。川柳が点者となって33年間で万句合は定会だけで応募句数が230万句を超えた。まさに江戸随一の俳諧点者であったといえよう。

(園田豊)

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世界大百科事典 第2版の解説

からいせんりゅう【柄井川柳】

1718‐90(享保3‐寛政2)
江戸中期の前句付専門点者。名は正通。幼名勇之助。通称八右衛門。緑亭,無名庵と号す。浅草新堀端に住む。38歳で竜宝寺門前町などの名主を継ぎ,1757年に前句付点者となり,山手を中心地盤に,1~7月を休み,毎年8月から年末まで月並み興行。都会的俳諧的な句を採って人気を得,明和(1764‐72)中には江戸の第一人者となったが,安永(1772‐81)以後は狂歌に押され下降気味であった。なお,この定例会のほか,休会中も,角力会や組連主催の五の日興行の〈五五(ごご)の会〉の撰もしたが,彼の名を高めたのは高点付句集《柳多留》であった。

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大辞林 第三版の解説

からいせんりゅう【柄井川柳】

1718~1790) 江戸中期の前句付け点者。本名、正通。江戸浅草の名主。前句付け点者として圧倒的人気を得、川柳の名が前句付けの名称となった。川柳号は初代以後一五代まで続く。編「誹風柳多留」 → 川柳

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

柄井川柳
からいせんりゅう

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世界大百科事典内の柄井川柳の言及

【川柳】より

…17音を基本とする単独詠だが,発句(ほつく)のように季語や切字(きれじ)を要求せず,人事人情を対象にして端的におもしろくとらえる軽妙洒脱な味を本領とする。江戸の柄井川柳が《柳多留(やなぎだる)》(初編1765)で前句付の前句を省く編集法をとったため,しだいに付け味よりも付句一句の作柄が問題とされ,やがて5・7・5単独一句で作られるようになり,初代川柳の没後,〈下女〉〈居候〉などの題詠として前句付様式から離脱独立した。〈川柳〉の名称が一般化したのは明治の中ごろからである。…

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