柴五郎(読み)しばごろう

改訂新版 世界大百科事典 「柴五郎」の意味・わかりやすい解説

柴五郎 (しばごろう)
生没年:1859-1945(安政6-昭和20)

陸軍軍人東海散士柴四朗)の弟。会津藩士柴佐多蔵の子。戊辰戦争で柴家の婦女自刃,男たちも一時,俘虜となり収容所(江戸の謹慎所)に入る。弘前県大参事野田豁通の書生となり,1879年陸軍士官学校を卒業,日清戦争には大本営参謀となった。1900年清国公使館付武官のときイギリス,ドイツ,フランスの侵略意図や軍閥との関係を調査。義和団事件では北京に籠城し,清国兵の大砲奪取の積極策を推した。日露戦争には野砲連隊長となり,その後重砲兵旅団長,第12師団長,東京衛戍総督などを歴任,19年大将,台湾軍司令官に任じられた。23年予備役。彼は真の中国を知り,真に中国の友たらんとし,軍にあっても中国通として重きをなしていたにもかかわらず,満州事変以後の陸軍の動向落胆の日々を送る。藩閥の外にありながら陸軍の中枢を歩んだ稀有(けう)な存在であった。
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20世紀日本人名事典 「柴五郎」の解説

柴 五郎
シバ ゴロウ

明治〜昭和期の陸軍大将 陸軍軍事参議官



生年
安政6年5月3日(1859年)

没年
昭和20(1945)年12月13日

出生地
睦奥国会津(福島県)

学歴〔年〕
陸士(旧第3期)〔明治12年〕卒

経歴
藩閥の外にありながら陸軍大将、軍事参議官にまで進み、中国問題の権威として重きをなした。明治元年10歳の時会津若松城落城、捕虜となって東京に護送され、脱走して流浪、下僕生活、給仕などを経て幼年学校、陸士を卒業した。16年近衛砲兵大隊小隊長、22年砲兵大尉、近衛砲兵連隊小隊長、23年陸軍省砲兵課員、27年イギリス公使館付、28年日清戦争出征。33年清国公使館付となり、義和団事件では北京の公使館に籠城した。日露戦争には野砲第15連隊長として出征。40年少将、41年佐世保要塞司令官、42年重砲第2旅団長、大正2年中将、下関要塞司令官、8年大将、台湾軍司令官、10年軍事参議官、12年予備役となった。石光真人編著「ある明治人の記録」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柴五郎」の解説

柴五郎 しば-ごろう

1859-1945 明治-大正時代の軍人。
安政6年5月3日生まれ。柴四朗の弟。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士の子。日清(にっしん)戦争では大本営参謀。のちイギリス・清国公使館付武官となり,義和団事件の際の北京籠城戦を指揮した。日露戦争では野砲第十五連隊長。佐世保要塞(ようさい)司令官,東京衛戍(えいじゅ)総督などを歴任し,大正8年陸軍大将。台湾軍司令官,軍事参議官をつとめた。昭和20年12月13日死去。87歳。陸軍士官学校卒。自伝に石光真人編『ある明治人の記録』。

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百科事典マイペディア 「柴五郎」の意味・わかりやすい解説

柴五郎【しばごろう】

陸軍軍人。福島県生れ。父は会津藩士,小説家で政治家の東海散士(柴四朗)は兄。1879年陸軍士官学校卒。日清戦争中は大本営参謀,戦後,清国公使館付武官となり,義和団事件では北京公使館に籠城して解決にあたった。日露戦争で戦功をあげ,第12師団長,東京衛戌(えいじゅつ)総督などを歴任,1919年会津藩出身者で初の陸軍大将となり,台湾軍司令官となった。1923年退役。満州事変後の陸軍の動向に落胆したといわれ,その死に自決説がある。

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367日誕生日大事典 「柴五郎」の解説

柴 五郎 (しば ごろう)

生年月日:1859年5月3日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人。大将
1945年没

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