桜井神社(読み)さくらいじんじや

日本歴史地名大系 「桜井神社」の解説

桜井神社
さくらいじんじや

[現在地名]堺市片蔵

片蔵かたくら集落の北端、石津いしづ川支流の南岸近くに鎮座し、閑静な社叢に囲まれる。祭神は誉田別命・足仲彦命・息長帯比売命。旧府社。上神谷にわだに八幡宮と通称される。社伝によると、推古天皇五年八月、この地に八幡神が示現、郷民が神祠を建て祀ったところ「亀乙」と称する老翁が現れ三神神像を刻み姿を消したという。「泉州志」「和泉名所図会」によると、本来の祭神は武内宿禰といい、後に八幡神が合祀されたとしている。この説に従えば武内宿禰を祖神とする和泉の古代氏族坂本・的・布師・紀辛梶・大家・掃守田・丈部(「新撰姓氏録」和泉国皇別)のいずれかの氏族の氏神として草創され、その後八幡神が勧請されたものとも考えられる。

南北朝時代の当社は別宮べつぐう八幡宮とよばれ、若松わかまつ庄の鎮守であったが、庄内の豊田とよだとが・片蔵・釜室かまむろ逆瀬川さかせがわ富蔵とみくら田中たなかはたなどで宮座が形成されていた。この座の記録が中村結鎮御頭次第(奥野健一家文書・桜井神社文書)で、正平六年(一三五一)から明治五年(一八七二)まで書継がれている。これは毎年正月に行われた結鎮(矢で的を射、災を祓い福を招く)行事の頭役を記録したもので、頭役は宮座の構成員となっている本結衆から選出された。


桜井神社
さくらいじんじや

[現在地名]志摩町桜井

相薗あいぞのに鎮座する旧県社。祭神は神直日神・大直日神・八十柱津日神。慶長一五年(一六一〇)六月、現社殿背後の丘に大雨が降った際に岩戸が姿を現し、これを参詣した桜井村の浦新左衛門の妻が神がかりとなり、その託宣が的中するため参詣者が増加、寛永四年(一六二七)に社殿が建てられたという(「和漢年代記」鎌田家文書)。第二代福岡藩主黒田忠之が寛永六年から岩戸の前に神殿造営を始め、同九年に完成。京都から吉田兵部少輔春忠を招請して神事を執行い、社号を与土姫よどひめ(与止姫)大明神とした。また忠之は神主浦権頭大輔毎成に吉田神道を学ばせ、領内の神官を支配する総司とした(以上「続風土記」など)


桜井神社
さくらいじんじや

[現在地名]安城市桜井町 桜林

集落の東に鎮座。天照大神・伊弉諾神・伊弉冊神・菊理媛神ほか五柱を祀る。三河国内神名帳に「従五位下 桜井天神 坐碧海郡」と記す。桜井松平氏の崇敬が厚く、すでに大永七年(一五二七)桜井城主松平玄蕃助親房によって社殿の造営があり、同年の棟札に「願主 松平玄蕃入道宗安」とある。松平氏は松山城(現埼玉県東松山市)に移り、左馬允忠頼が浜松城主となると、社領一〇石を寄進している。

慶長一五年(一六一〇)幕命により大修理が行われ、三河三白山として大岡おおおか白山・上条じようじよう白山両社とともに徳川家の崇敬が厚かった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桜井神社」の意味・わかりやすい解説

桜井神社
さくらいじんじゃ

大阪府堺市にある元府社。祭神は応神天皇,仲哀天皇,神功皇后。『延喜式』では国幣小社に列していた。社伝では桜井一族が祖先武内宿禰を祀ったことに始り,推古5 (597) 年に八幡神 (ホンダワケノミコト) を勧請合祀したとされ,古くは武内宿禰が主たる祭神であった。中世以降は八幡宮とも称し,武家の崇敬を受け,南北朝の動乱期には南朝方に属した。 1910年に上神谷 (にわだに) 村の村社 10社を合祀し,そのなかの国神社の神事であった「こおどり」が 10月5日の例祭の際に行われ,無形民俗文化財。拝殿鎌倉時代の建築で,国宝。神社建築では珍しい瓦ぶきで,仏殿建築の様式の混ざる割拝殿の形式になっており,他の仏堂を移建した可能性も指摘されている。

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デジタル大辞泉プラス 「桜井神社」の解説

桜井神社

大阪府堺市にある神社。鎌倉時代に建てられた国宝の拝殿がある。

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