桜山茲俊(読み)さくらやまこれとし

精選版 日本国語大辞典 「桜山茲俊」の意味・読み・例文・類語

さくらやま‐これとし【桜山茲俊】

鎌倉末期の武将通称四郎備後の人。元弘の変において、楠木正成(くすのきまさしげ)に呼応して兵をあげ、翌年自刃した。元弘二年(一三三二)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桜山茲俊」の意味・わかりやすい解説

桜山茲俊
さくらやまこれとし
(?―1332)

鎌倉後期の武将。名は四郎入道。備後国(びんごのくに)一宮(いちのみや)吉備津(きびつ)神社(広島県福山市新市(しんいち)町宮内(みやうち))の神官である宮氏の一族として、近隣の桜山本拠をもった。1331年(元弘1)元弘(げんこう)の変における楠木正成(くすのきまさしげ)の挙兵に応じて、神社の南側丘陵上に築城し、700余名の兵とともに立てこもった。一時は備後のみならず備中(びっちゅう)、安芸(あき)へも進出しようとする勢いであったが、笠置(かさぎ)落城、後醍醐(ごだいご)天皇捕縛の風聞を聞くに及んで軍勢離散、翌32年、一族20名とともに吉備津神社に参り、妻子刺殺社殿に火をかけ自刃した。現在神社周辺は「一宮(桜山茲俊挙兵伝説地)」として国指定史跡。

[小林一岳]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桜山茲俊」の解説

桜山茲俊 さくらやま-これとし

?-1332 鎌倉時代の武将。
備後(びんご)(広島県)の人。楠木正成(くすのき-まさしげ)の挙兵に呼応し備後の吉備津(きびつ)神社で蜂起(ほうき)。笠置(かさぎ)落城,後醍醐(ごだいご)天皇捕縛をきき,軍勢が離散したため,一族郎党とともに元徳4=元弘(げんこう)2年1月21日吉備津神社で自刃(じじん)。のち同地に桜山神社がたてられた。通称は四郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桜山茲俊」の意味・わかりやすい解説

桜山茲俊
さくらやまこれとし

[生]?
[没]元弘2=正慶1(1332).1.21. 備後
鎌倉時代末期,備後国の武将。元弘1=元徳3 (1331) 年楠木正成に呼応して備後国一宮で討幕の兵をあげたが,笠置が陥落し,正成が自刃したという噂に軍勢が離散したため,妻子を殺し郎党 23人とともに自害。

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朝日日本歴史人物事典 「桜山茲俊」の解説

桜山茲俊

没年:正慶1/元弘2?(1332)
生年:生年不詳
『太平記』に出てくる鎌倉時代末期の備後国(広島県)の勤王武将。四郎入道。茲俊の名は金勝院本による。元弘1(1331)年8月後醍醐天皇が笠置寺にたてこもり鎌倉幕府との戦いを始めると,備後一宮に拠って応じたが,翌年笠置の陥落を聞き,一宮に火をかけ,妻子一族郎党と共に自害した。

(森茂暁)

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