法律によって付与されている権利を,その認められる社会的な意義ないし目的を逸脱して行使すること。たとえば,自分に固有の利益がないのに,他人を害する目的で権利を行使するのは,実質的政策的配慮から権利の濫用として違法とされ,権利行使としての法律上の効果を生じないものとされる。権利の行使を,ただ権利だからというだけで無制限に認めると,個別具体的な事情のいかんによっては,必ずしも妥当な結果をもたらさないことがある。そのような場合に権利の行使を抑制するものとして,権利の濫用という考え方が必要となるのである。
古代ローマ法では,〈権利を行使する者は,なんぴとに対しても不法をなすものではない〉という法諺が示すように,個人主義的な権利行使自由の原則ともいうべき考え方が支配していた。しかし,それでも,主観的に他人を害する目的での権利行使は禁じられていた(シカーネSchikaneの禁止)。近代の権利濫用論のはしりとされる19世紀のフランスにおける判決も,このようなシカーネの禁止に関するものから始まったし,1896年に公布され1900年に施行されたドイツ民法典も,このような害意目的の権利行使のみを禁じている(226条)。しかし,その後できたスイス民法典(1907公布)は,抽象的一般的に,権利の明白な濫用は法律の保護を受けない,と規定するに至った(2条2項)。
日本でも,すでに明治時代からシカーネ的な権利行使を不当とする考え方が散見されたが,1919年以降は,大審院の判決でも権利濫用という用語が用いられるようになり,ついには第2次大戦後,47年の民法改正にあたって〈権利ノ濫用ハ之ヲ許サス〉と明文化されるに至った(1条3項)。こうして,現在の権利濫用論は,害意目的のシカーネの禁止の枠をこえて,権利の認められる社会的意義に照らして,正当利益の欠如,信義誠実の原則や善良な風俗への違反(1条2項,90条)など,諸事情の利益衡量から権利行使を制約するものとして機能している。
しかし,権利濫用論は,前述した法文も示すように,その抽象的一般的な表現形式からして,その運用は裁判官の恣意にゆだねられる危険性をももっている。したがって,先例を,その果たしている具体的な機能の差異に着目して類型化し,評価して,その限界を画する作業が不可欠となる。その場合種々の分類が可能であるが,実際における運用のされ方を次のように分類して概観しよう。
第1に,権利濫用論は,その行使者に加害者として不法行為(民法709条)の成立を認め,損害賠償義務を課するために用いられることがある。たとえば,汽車の煤煙で名木が枯れたとか,土地所有者のする建物収去の執行が乱暴で建物材料の価値を著しく減じたとか,建築基準法違反で,社会的にも問題のある大きな増築で隣家の日照を妨げた,というような場合である。加害者にとっては権利行使の面もあるが,他人に加えた損害を重視して損害賠償義務を肯定するために,権利濫用と理由づけるのである。
第2に,権利濫用論は,所有者から無権限占拠者に対する妨害排除請求権の行使を,特段の事情のあることを配慮して拒絶するためにも用いられる。たとえば,温泉街への引湯の木管とか,発電用トンネルとか,鉄道の線路などが,誤って承諾を得ていない他人の土地を通っている場合に,これを撤去させることによる土地所有者のささいな利益とこれらの施設の所有者や社会一般に及ぼす甚大な損失とを比較衡量して,金銭による適正な補償を求めるのはともかく,施設自体の撤去を求めるのは権利の濫用だとされるのである。
第3に,権利濫用論は,権利者相互間の抽象的な権利の範囲を明確化する機能をも営まされている。たとえば,双方とも地下水を営業に利用している隣人の一方が,深井戸を設けてこれを独占し,他方の水利用を妨げる場合などである。親がその親権を子供の不利益に行使するのを制限するのも,これに属しよう。
第4に,権利濫用論は,進展する社会事情に適合させるために,法の認める権利の範囲を縮小する機能をも営まされている。たとえば,賃借人のする賃借権の無断譲渡や転貸(民法612条)をはじめとして,債務不履行を理由とする契約の解除(541条以下)を,背信的行為と認められない特段の事情があるときに制限するのである。
以上の判例に対して,学説は種々の検討を加えている。上述の第1は,被害者にとって受忍限度をこえるとか,日照権を承認するとかでただちに不法行為責任を認めることができ,あえて権利濫用というまでもないとされる。第2は,大規模の施設を設置した者は土地所有者の犠牲において保護されるという危険性がある,と批判される。また,第3と第4は,権利行使を制約する点では共通だが,このような考え方が一般化すると,権利の社会的内在的な制約へと権利自体についての把握のしかたが変質し,権利濫用論は,その中に昇華し,消滅する運命にあることが指摘される。とくに第4は,契約当事者間では信義誠実の原則が適用されるべきだとする有力な立場からすれば,同原則にゆだねられるべきものだといえよう。
以上は民法を中心として説明したが,権利濫用論は,そのほか,商法,民事訴訟法,労働法などでも問題となるし,ほかに憲法も,基本的人権の行使の濫用は許されないと明記している(12条)。さらに,行政権の恣意的な運用を統制すべく,行政処分に〈裁量権の濫用〉があるときは,裁判所はこれを取り消すことができる,とされている(行政事件訴訟法30条)。こうして,今や権利濫用論は,法律全体を通じての指導理念となっているのである。
→行政裁量
執筆者:好美 清光
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…また,土地所有権について207条で〈土地ノ所有権ハ法令ノ制限内ニ於テ其土地ノ上下ニ及フ〉と規定した。 所有権絶対の原則は,フランスの民法学が19世紀半ば権利濫用の法理を確立してから修正を受けるようになる。そして隣国ドイツでも,19世紀後半には社会的所有権の思想が現れて修正されるようになる。…
※「権利濫用」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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