横島村(読み)よこしまむら

日本歴史地名大系 「横島村」の解説

横島村
よこしまむら

[現在地名]横島町横島

南と南西有明海に面し、東境唐人とうじん川が南流、北は大園おおぞの村とはま(現玉名市)に接する。近世以後干拓工事が進み南部に拡張している。「国誌」に加藤清正入国の頃までは海上に浮かぶ離島であったという里人の伝えが記され、また山海の要害であり海陸の通路であったという。「覚兼日記」天正一二年(一五八四)一〇月一九日条に「横嶋」がみえ、番衆が置かれている。「普聞集」などにも前年の島津氏と龍造寺氏の和平の際に龍造寺氏が横岳・姉川両氏を当地の番として置いたとあり、軍事・交通上の要地であったことが知られる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田五七町四反余・畠二四町七反一畝余、分米八〇〇石八斗余。


横島村
よこしまむら

[現在地名]笠岡市横島

富岡とみおか村の南にあり、海を隔てて西は笠岡村、南は神島内浦こうのしまうちうら寛永備中国絵図に「横嶋」とみえ、孤島として描かれる。口碑では元和五年(一六一九)に横(南北)に三つ並んでいた小島の周辺を備後福山藩が干拓、横長の一つの島になったのが村名の由来という。のち延宝二年(一六七四)富岡新田の開発によって笠岡村とは陸続きとなった。中央部の二つの丘陵を背にして、東から南東に開けた低地付近で、縄文時代の貝塚土器、弥生式土器などが出土した。


横島村
よこしまむら

[現在地名]内海町 坊地ぼうじ志垣しがきなど

島の西南、坊地ノ瀬戸を境に続く横島とその西南に続く当木あてぎ島を村域とする。北はもも(現尾道市)。「福山志料」に「周二里九町三十八間」、田島との間は「退潮ノトキハ徒渉ニス」とある。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳には六一・〇九二石とあるが、元禄一三年(一七〇〇)備前検地では一三九・四九二石。同高を記す「備陽六郡志」によると内訳は田方三四・四一九石(三町九反余)・畠方一〇一・二四一石(一九町一反余)。他に塩浜ぬい高として三・八三四石を記す。「福山志料」によると戸数一〇二・人口七一九、牛四〇匹、船数大小三〇艘。


横島村
よこしまむら

[現在地名]下館市横島

小貝こかい川右岸、水戸―笠間道(結城街道)沿いに位置し、北は川澄かわすみ村。中世には小栗おぐり御厨に属し、常陸大掾氏の一族小栗(現真壁郡協和町)城主小栗重政の四子重家が横島四郎と名乗り当地を支配したとされ(新編常陸国誌)、文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏領となる。

江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)や寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)に、村高四八一・二三三石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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