氷室神社(読み)ひむろじんじや

日本歴史地名大系 「氷室神社」の解説

氷室神社
ひむろじんじや

[現在地名]奈良市春日野

奈良国立博物館の北、字野守のもりに鎮座。祭神は闘鶏稲置大山主つげのいなきおおやまぬし命・大鷦鷯おおさざき(仁徳天皇)額田大中彦ぬかたのおおなかつひこ命。旧村社。氷室は仁徳天皇六二年、大和のつげの氷室に始まると伝え(日本書紀)、氷を取る池は大和に三〇ヵ所あったといい、氷池神・氷池風神を祀っていた(「延喜式」主水司)。「元要記」および社伝によると、当社は平城遷都に伴い氷室を春日の三笠みかさ山麓の吉城よしき川上に作り、和銅三年(七一〇)七月二二日に氷室明神を三笠山の下津岩根しもついわね宮に祀ったのが始まりとされる。これを高橋氷室たかはしのひむろ神社と称したので、「延喜式」神名帳の添上そえかみ郡「高橋神社」にあてる説もある(大和志料)。「元要記」によれば貞観二年(八六〇)二月一日、瑞相によって三所の宮柱を鎮座し、建保五年(一二一七)一一月一日宮柱を造営、現在地へ遷し、春日の舞人狛近真が付属の下知をこうむり漸次末社を勧請した。「大乗院寺社雑事記」文明三年(一四七一)九月一日条には、大鳥居と東西一町の瑞垣を新造したことが記されている。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔春日氷室・水谷氷室〕

吉城川の氷室は春日氷室・水谷みずや氷室とも称し、天平勝宝八年(七五六)の東大寺山堺四至図(正倉院蔵)には当地辺りに「氷池」「神地」が記され、興福寺の寺域東限が氷室の西垣であった(「天平記」興福寺流記)

氷室神社
ひむろじんじや

[現在地名]天理市福住

浄土じようど集落に鎮座。祭神闘鶏稲置大山主つげのいなきおおやまぬし命・大鷦鷯おおさざき命・額田大中彦ぬかたのおおなかつひこ命。旧郷社。都介つげ氷室の守護神で、氷池風神九所のうちの大和国一所にあたり、毎年一一月に氷池神祭が行われた(「延喜式」主水司)中世には福住ふくずみ(中定・入田・南田・小野味・浄土・別所・井ノ市)の鎮守となり、領主福住氏が神主として奉祀した。福住氏は宗職の代に最盛期を迎え、社蔵の春日版嘉禄本大般若経奥書に「大和国山辺郡福住庄氷室宮御宝前御経也 宗職(花押) 時天文八年己亥八月五日」とある。宗職は筒井順慶の家老などを務め、鎮守奉斎が滞ったため別に神主を雇い、永禄二年(一五五九)には嫡子宗永に神主職を譲渡、同年六月一七日に吉田兼右が作成した奉告祭祝詞を当社に納めて隠居した(「女房奉書」舟橋家文書)

氷室神社
ひむろじんじや

[現在地名]北区西賀茂氷室町

たかヶ峰の北西約五キロ、氷室山山中の集落の西方にある。旧村社。栗栖野くるすの氷室近くに祀られた氷室神社の一。栗栖野氷室は「延喜式」主水司にみえ、当社は禁裏に供御する蔵氷にたずさわった清原家が勧請したと伝えるが、成立年代は不詳。奈良春日野の氷室神社同様、仁徳天皇時代額田大中彦皇子に初めて氷をつくって献上したと伝える稲置大山主いなきおおやまぬし神を祀る。「山城名跡巡行志」に「鳥居西向拝殿黒漆金物故物也南向」とあり、「拾遺都名所図会」に境内図が描かれるが、現在の配置と合致する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「氷室神社」の解説

氷室神社

奈良県奈良市、奈良国立博物館付近にある神社。奈良時代春日奥山にあった氷室に氷の神を祀ったのが起源と伝わる。祭神は闘鶏稲置大山主命(つげのいなきおおやまぬしのみこと)、大鷦鷯命(おおささぎのみこと)、額田大中彦(ぬかたのおおなかつひこのみこと)。製氷業者の信仰が厚く、鯉や鯛が封じ込められた氷の柱が奉納される「献氷祭」が有名。

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