永井村(読み)ながいむら

日本歴史地名大系 「永井村」の解説

永井村
ながいむら

[現在地名]新治村永井

吹路ふくろ村の西に位置し、三国街道上州路最奥の宿場。三国峠にかかる斜面にあり、永井宿を出た三国街道はやがて北上、法師ほうし温泉を経て峠に至る。戦国期の史料には長井と記され、江戸時代の郷村帳類も長井とするものが多いが、地方文書では永井の用例のほうが多い。「東路の津登」永正六年(一五〇九)八月一五日条に「この比、越後の国鉾楯により、武蔵、上野の侍進発のこと有て、いつこもしつかならさりしかハ、ひと夜有て、翌日日さけて、長井の誰やらんの宿所へと送らる」とある。永禄九年(一五六六)四月二四日の上杉輝虎書状写(河田文書)によると、この頃上杉勢は長井に陣を取っており、天正一〇年(一五八二)三月二七日の栗林就頼宛矢野綱直書状(上杉家文書)には、「長井近辺之山小屋」がみえる。

万治二年(一六五九)沼田藩領分書上写によると、高四三石余。寛文郷帳では田方三斗余・畑方四三石一斗余。寛文三年(一六六三)沼田藩領新検地控では一九六石余。貞享二年(一六八五)沼田藩領再検地控では三五石余。元文元年(一七三六)の家数人数改控(林文書)によると、家数二九・人数一六一、馬三五、牛五。


永井村
ながいむら

[現在地名]都南村永井

下飯岡しもいいおか村・羽場はば村東方の平坦地に位置し、北は津志田つしだ村、南は赤林あかばやし(現矢巾町)。史料により上永井・下永井の二村で記載されることもある。正保国絵図に村名がみえ、高二八〇石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高三九三石余、七ヵ年平均の免三ツ九分三厘二毛。元禄十郡郷帳による〆高は、田方一千一五六石余・畑方一〇三石余。「邦内郷村志」では上下に分れ、上永井村の蔵分六三七石余、家数五二、馬七七。下永井村は蔵分六〇六石余・給分五一石余、家数六三、馬七四。


永井村
ながいむら

[現在地名]岡崎市福岡ふくおか

東は菱池ひしいけ沼開発地で萱園かやぞの村、西はなか村・定国さだくに村、南は広田こうた川で山永井やまながい(現額田郡幸田町)、北は高須たかす村と接する。菱池沼開発によって土呂とろ村より寛永五年(一六二八)深溝藩領内総検地の際に分村独立した。当時の検地帳は「三州幡豆郡永井村検地帳」(国立史料館蔵)と記し、幡豆はず郡になっている。同年の時点で広田川南の幡豆郡山永井村は岡崎藩領であった。独立当時は居屋敷持八人、屋敷数一三軒、村高は二八六石余。内訳は田高一八九石余・畑高九六石余。寛永郷帳には当村の記載がない。


永井村
ながいむら

[現在地名]幸田町永野ながの

幡豆郡の最北東に位置する。近世以前は東は菱池ひしいけ沼、北は菱池沼および排水路の広田こうた川で額田郡と境。一七世紀中期以降は菱池沼開発の当村地先分は完了し、東は額田郡鷲田わしだ村と入会状況で開発地で接する。西は山で上羽角かみはすみ(現西尾市)、南は山と耕地で当村より分村の野崎のざき村と接する。村域内を深溝ふこうずより六栗むつぐり野場のばを過ぎて中島なかじま(現岡崎市)に至る道があり、菱池沼の池縁に沿うところからはま道とよばれる。


永井村
ながいむら

[現在地名]八代町永井

東はおか村、南は米倉よねくら村で、集落はあさ川扇状地の扇端部分にある。「和名抄」所載の八代郡長江ながえ郷の遺称地とされる。永禄四年(一五六一)の番帳の二〇番に「なか井の禰き」とみえ、勤番社は当地の天神社にあたる。「武田家日坏帳」によると、同八年九月二一日八代郡「長井」の橋田氏の息が没している。天正一〇年(一五八二)には「長井之夫」などが有賀式部助に、地内一四貫文が加賀美右衛門尉に相次いで安堵された(同年八月一三日「徳川家印判状写」記録御用所本古文書、同年一一月七日「徳川家印判状写」譜牒余録)


永井村
ながいむら

[現在地名]玉山村永井

北上川右岸に位置し、北を外山そとやま川が流れ、北西に送仙おくりせん(四七二メートル)がそびえる。東は北上川を境に寺林てらばやし村・巻堀まきぼり村、南は好摩こうま村。「雑書」慶安二年(一六四九)一〇月二四日条によれば、所々へ追鳥奉行を派遣したなかに「長井」がみえる。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、蔵入高二八石余、七ヵ年平均の免二ツ四分七厘一毛。元禄十郡郷帳では沼宮内ぬまくない(現岩手町)に入るとある。元文五年(一七四〇)の沼宮内通絵図(佐藤家蔵)に村名とともに、天神てんじんだんひら永井谷地ながいやち・永井山・半在家はんざいけ・おくりせんたけがみえる。「邦内郷村志」には蔵分九石余・給分五六石余、家数二一・馬二一。


永井村
ながいむら

[現在地名]菰野町永井

朝明あさけ川を隔てて小島おじま村の南に位置する。「神鳳鈔」に「二宮長井御厨四十丁、各三石」と出る。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳では、梅戸次郎左衛門が一四〇貫文を知行していた。江戸時代は文政五年(一八二二)まで桑名藩領、翌年より武蔵おし(現行田市)藩領、天保一四年(一八四三)より幕府領として信楽しがらき(現滋賀県)代官所支配、安政元年(一八五四)以降再び忍藩領と変遷した。

宝永八年(一七一一)村差出帳(徳川林政史蔵)によれば、本高のほか二三四石余の出高があり、この新田分の耕地は、田方一五・六町余、畑方七・二町余である。当時の戸数は六八、うち本百姓四四。人口三三一(男一六八・女一六三)、馬二〇、牛一七、百姓持山八、林一。


永井村
ながいむら

[現在地名]加賀市永井町

大聖寺だいしようじ川下流左岸、吉崎よしざき村の東にあり、北は川を隔てて瀬越せごえ村。「和名抄」江沼えぬま長江ながえ郷の遺称地とされる。古く大聖寺川河口は当村付近まで細長い入江状の低湿地で、たけの浦とよばれた。文明五年(一四七三)八月二日の蓮如御文に「越前ノ国加賀ザカヒ、ナガエ、セゴエノ近所ニ、細呂宜郷ノ内吉崎トヤランイヒテ」と記され、ナガエが訛ってナガイと称するようになったとみられる。


永井村
ながいむら

[現在地名]坂井村永井

江戸時代の松本藩領麻績おみ組の一村で、南は安坂あざか村に隣接する。北東部は冠着かむりき山の山地で、西に開けた土地である。

「信府統記」によると「御朱印高五百二石一斗二升」で、享保九年(一七二四)当時の石高は七八〇石五斗九升六合七勺となっており、水田地帯は安坂川流域に多い。慶安四年(一六五一)の検地時の農家数は本百姓四五軒、門百姓八軒。


永井村
ながいむら

[現在地名]豊岡市泉町いずみちよう寿町ことぶきちよう大手町おおてまち千代田町ちよだちよう中央町ちゆうおうまち

てら町・久保くぼ町などの町並の西、豊岡城郭内の北に位置する。天正一〇年(一五八二)に始まる豊岡町(城下)中二ヵ村の一で、永井町とも永井町分ともいう。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名はみえず、以後の郷帳類にも記載されていない。おそらく豊岡町に含まれていたのであろう。


永井村
ながいむら

[現在地名]西区伊川谷町井吹いかわだにちよういぶき井吹台西町いぶきだいにしまち一―四丁目

伊川の右岸、支流永井谷ながいだに川流域の丘陵地に位置し、南は池上いけがみ村。建武元年(一三三四)三月八日の領家御教書写(太山寺文書)によれば、「伊川上庄公田常木長井谷并室谷」が領家(深草殿女房)から現当御祈祷のため太山たいさん寺に永代寄進された。当地に永井谷の地名が残る。明石藩主松平信之の開墾策で寛文五年(一六六五)に開拓された新田村。


永井村
ながいむら

[現在地名]新治村永井

筑波山系の南麓に位置し、西は本郷ほんごう村。中世はやま庄に属したといわれる。元禄一二年(一六九九)土浦藩領となり(土浦市史)元禄郷帳の村高は五二七石余。「県方集覧」(酒井泉氏蔵)には「横山内記様御代寛文七未年検地、一高五百弐拾四石八斗五升本途、外高二百四拾六石七斗六升四合検地出高、二口合高七百七拾壱石六斗一升四合田畑屋敷共」とある。


永井村
ながいむら

[現在地名]桃生町永井

樫崎かしざき村の北に位置し、丘陵麓に集落が点在。正保郷帳では田七五貫二一二文・畑九貫六八一文で水損・旱損と注され、ほかに新田一九貫九〇四文。桃生郡北方二〇ヵ村大肝入支配下の村で、「封内風土記」によると戸数五一、村田市郎殖継の所領であった。「宝暦職鑑」によれば、一家の村田氏が六八七石八斗一升を拝領し、在所支配がなされた。侍屋敷四〇軒・足軽屋敷五軒が記される。文政一一年(一八二八)の高一一九貫八八二文、うち田一〇九貫六四六文・畑一〇貫二三六文・茶畑二〇九文、人頭四一人、人数二五〇(「桃生南北本吉南方風土記」及川徳松家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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