改訂新版 世界大百科事典 「沖縄学」の意味・わかりやすい解説
沖縄学 (おきなわがく)
沖縄を対象にした学術的研究の総称。また,それらの諸研究を体系的に総合することで学際的な学問領域の形成を考える概念の呼称。前者は沖縄(琉球または南島)研究の単なる同義語として用いられるのに対し,後者には沖縄研究が日本研究の中で相対的にもつ比重の重さを強調し,自己確認の場を求める主張がこめられている。研究対象を琉球弧の全域とするため〈琉球学〉と呼ぶべきだと主張する研究者もいる。
歴史
1879年の廃藩置県(琉球処分)以後の研究を指す。その以前に大槻文彦《琉球新誌》(1873)や伊地知貞馨《沖縄志》(1877)などが〈処分〉へ向けた政治的な含みをもってあらわれるが,それらは研究前史に位置づけられよう。初期段階では学術的に未開拓の沖縄に魅せられた研究者の先駆的な業績がある。チェンバレン《琉球語文典及び語彙》(1895),幣原坦《南島沿革史論》(1899),加藤三吾《琉球の研究》(1906-07)等である。中等学校教師として来島し,多くの研究論文をのこした人の功績も大きい。人文科学における田島利三郎,自然科学の黒岩恒(ひさし)である。その門下からは篤学の研究者が多く出てすそ野をひろげた。また〈処分〉の前後から1900年代初頭にかけては明治政府や県当局による数多くの調査報告書が出された。これらを初期段階の成果に数え展開過程の一環としてとらえる見方が一般的であるが,適当とはいえまい。これは〈沖縄学〉の基礎資料に位置づけるべきであろうからである。
第2の段階は沖縄出身研究者が登場する1920年代半ばごろまでの時期である。のちに〈沖縄学のご三家〉と呼ばれる伊波普猷(いはふゆう),真境名安興(まじきなあんこう)(1875-1933),東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゆん)(1882-1963)がそれぞれの研究成果を世に問い注目された。伊波の《古琉球》(1911),真境名の《沖縄一千年史》(1923),東恩納の《大日本地名辞書》続編二・琉球(1909)は研究を担う主体として沖縄出身研究者が出現したことを示して画期的な意義をもった。
第3の段階は柳田国男の来島(1921)を契機に折口信夫をはじめ本土の研究者の来島調査が相つぎ,現地研究者の輩出とあいまって研究が高揚した20年代半ばから第2次大戦に至る時期である。柳田は帰京後〈南島談話会〉を設立,折口ら本土の著名な研究者と伊波ら沖縄・奄美出身研究者が参加して在野の拠点になった。沖縄や台湾にも研究会ができ,時流に乗った研究者たちも出て〈南島研究〉は一種のブームになる。この時期のブーム的な隆盛が一面では日本の対外膨張,南方進出の国策に照応していることには留意すべきだろう。
第2次大戦後は72年の〈施政権返還〉を画期として大別されよう。戦後初期の段階は沖縄が米軍施政下にある状況下で在京の比嘉春潮(ひがしゆんちよう)(1883-1977),仲原善忠(なかはらぜんちゆう)(1890-1964)らが東京に沖縄文化協会を設立(1948),沖縄研究を再出発させた。現地大学や本土留学によってしだいに戦後世代の若手研究者も育ち,〈日本復帰運動〉の高揚とも連関しながら研究は学際的な進展をみせた。しかし人文・社会科学の分野で〈日本文化との類同性を追求し同一化を志向する〉ことを出発当初からの基軸とした〈沖縄学〉の研究体質は,70年代に至るまで克服されなかった。金城朝永は50年に〈非日本的な異質の諸文化〉との比較研究の重要性を説いたが,顧みられないまま20年余がすぎたのである。戦後の第2段階は〈復帰〉後今日に至る時期で,金城の指摘にそった研究の深化がはかられつつある。自然科学研究は飛躍的な発展をみせている。それにともなって個別研究は多様化と細分化の方向をたどる。海外を含めて研究者の層は厚くなり研究の蓄積も増大している。それらをいかにして総合し体系化しうるのかは今後の課題といえる。
琉球文化圏は動植物の分布を含めて学術的価値は高い。日本の基層文化を解明する貴重な手がかりになる部分も多い。そうした地域的な特性を総合的に把握して全体像の構築を考えるのが〈沖縄学〉という呼称に託す問題意識でもある。
執筆者:新川 明
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