こが‐きんいちろう【古賀謹一郎】
- 幕末・明治初期の朱子学者、洋学者。侗庵(どうあん)の子。名は増(まさる)。字は如川。号茶渓(さけい)、謹堂。家学を承けて幕府の儒官となり、また洋学に志して、のち洋学所の創設に尽力し、その初代頭取となる。またアメリカ使節ペリーの応対や、外交文書の作成などにあたる。著の「度日閑言」は、西洋事情を多く伝える。文化一三~明治一七年(一八一六‐八四)
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古賀謹一郎【こがきんいちろう】
幕末明治初期の儒者,洋学者。名は増(まさる)。号は茶渓(ちゃけい),謹堂。父は幕府儒官古賀【どう】庵〔1788-1847〕。江戸昌平黌の官舎に生まれる。1853年ロシア海軍提督プチャーチンの来航に際して勘定奉行川路聖謨(としあきら)に従って長崎へおもむく。1855年創設の洋学所(のちの蕃書調所,開成所)頭取。明治維新後は新政府より徴せられたが辞退。著書《度日閑言(とじつかんげん)》《蕃談(ばんだん)》。
→関連項目河井継之助
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古賀謹一郎 (こがきんいちろう)
生没年:1816-84(文化13-明治17)
幕末,明治前期の儒学者,洋学者。名は増,字は如川,号は謹堂,茶渓。謹一郎は通称。幕府儒官古賀侗庵の子。早くより家学を受け17歳にして二十一史に通ずる。1836年(天保7)幕府に出仕し,46年(弘化3)儒者見習となる。このころから洋学に関心を持ち外交にも関与した。55年(安政2)洋学所(翌年,蕃書調所と改称)頭取となり洋学の興隆につとめ,62年(文久2)昌平黌学事に転ずる。主著《度日閑言》。
執筆者:頼 祺一
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古賀謹一郎
こがきんいちろう
(1816―1884)
幕末の進歩的儒官、外交官。江戸に生まれる。名は増(まさる)、字(あざな)は如川。謹堂または茶渓と号した。祖父の精里、父の侗庵(どうあん)は漢学者ながら開国論者であり、彼も海外に目を向けた。ハワイからアラスカを見聞した漂民の次郎吉の談話をまとめて『蕃談(ぱんだん)』(1849)を著し、1853年(嘉永6)ロシア使節プチャーチンが来航したおりには異国応接掛として長崎に派遣され交渉にあたった。洋学研究機関蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の創設に尽力し、初代頭取となり(1855~62)、西洋研究の官学における確立者として功績が大きい。オランダの雑誌記事の漢訳文集『度日閑言』25巻、そのほか詩集、文集(いずれも未刊)を残している。
[石山 洋]
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古賀謹一郎 こが-きんいちろう
1816-1884 幕末-明治時代の儒者。
文化13年11月11日生まれ。古賀侗庵(どうあん)の長男。家学をついで幕府の儒官となる。嘉永(かえい)6年川路聖謨(としあきら)らとロシア使節プチャーチンの応接掛をつとめる。安政3年蕃書調所初代頭取。のち製鉄所奉行並,目付などを歴任。維新後は新政府に出仕しなかった。明治17年10月31日死去。69歳。江戸出身。名は増(まさる)。字(あざな)は如川。号は茶渓,謹堂。著作に「度日閑言」など。
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古賀謹一郎
こがきんいちろう
[生]文化13(1816)
[没]1884
幕末の洋学者。漢学の家に生れ,海外事情に関心をもち,蕃書調所の初代頭取となった。また嘉永6 (1853) 年,ロシア使節の長崎来航の際,交渉の任にあたった。
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古賀謹一郎 (こがきんいちろう)
生年月日:1816年11月11日
江戸時代末期;明治時代の幕臣
1884年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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