肴町(読み)さかなまち

日本歴史地名大系 「肴町」の解説

肴町
さかなまち

[現在地名]仙台市国分町こくぶんちよう一丁目・大町おおまち二丁目

大町一・二・三丁目の北裏、大町通の一筋北の両側町で、町の長さは四町(奥陽名数)。東隣は国分町。町方二四町の二番目に列し(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)、いわゆる伊達譜代六町の一であった。由来は大町とともに古く、米沢城下ひがし町にあたると伝え、近世期の岩出山いわでやま(現玉造郡岩出山町)に残る肴町という侍屋敷は同地に肴町があったことを示すとする説もある。また当町開祖を戦国大名の長宗我部元親とする伝えがあり、同氏は仙台開府前に死去しているが、「伊達世臣家譜」にみえる平士香宗我部氏の初代貞親が元親の裔と称することから関連がうかがえる。また七月に行われる当町の浜祭では魚類を供養し、鯨などの作りものを若い衆が鉦太鼓でかつぎ回り、その後に仮装の大名行列が続くが、これは同大名に由来するという。町割も大町に次いで割られ、それからみなみ町が割付けられた(年未詳南町願状写「仙台市史」所収)。町の規模は元禄八年(一六九五)の軒数七九・検断二・肝入一(仙台鹿の子)、明和九年(一七七二)の宅地八二、男七一一・女五七四(封内風土記)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上(「仙台市史」所収)では家数四七六のうち蔵一一二、弘化二年(一八四五)の軒数一二九(奥陽名数)、嘉永五年(一八五二)の人頭一二八人、人数一千一一(切支丹宗門改人数)


肴町
さかなまち

[現在地名]山形市肴町・宮町みやまち一丁目・北山形きたやまがた一丁目

三の丸の堀の北側にあり、東は町と小橋こばし町、北は皆川みながわ町、西は下条しもじよう町に接し、六十里越街道の両側町。最上川の舟運が完備すると酒田の魚が城下に運ばれ、明治に至るまで通りの両側には魚問屋が軒を並べていた。同川の舟運が盛んな時代には物資交易の場として、また出羽三山への修験者が通る六十里越街道の町として賑った。小荷駄こにだ町支配のゆみ町の一部で肴市が開かれ、俗に南肴町とよんでいたが、これに対し当町は北肴町と称していた。元和九年(一六二三)の江俣村検地帳(山形県史)などに、肴町四人・南肴町二人とともに北肴町の住人一六人が名請人として載る。


肴町
さかなまち

[現在地名]村上市肴町

東口は鍛冶かじ町と接し、西へ四町五二間延びる町並。西の町はずれは城下町の最西端で、瀬波せなみ街道を守る要衝の地でもあるので、鉄砲屋敷に隣接した枡形を設け、備えを堅固にした。かつて村上城主の初入部の際はこの枡形から城下へ入り、追手門から入城するのが通例になっていたという。一方瀬波町までは鬱蒼とした松並木が続いて、俗に松原八丁などとよばれていたが、第二次世界大戦の際松根油を採るため伐採された。現在は一里塚の榎のみ残る。

当町名は堀直寄の城普請の際、工事に使役された代償に魚の専売権を得た町であることに由来する(享和三年「口上書覚」年行事文書)


肴町
さかなまち

[現在地名]浜松市肴町・鍛冶町かじまち田町たまち

神明しんめい町の南、同町に直交する南北の町並で、南は鍛冶町。西側に並行して連尺れんじやく町・伝馬てんま町がある(井上氏時代城下絵図など)。御役町六町の一。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ二町五六間三尺、家数九六。浜松各町書上によると町並は東側・西側とも一七六間三尺、町幅は橋上二間三尺・橋下三間。横町の長さ一六間三尺で、沼殿ぬまどの小路と称した。本役家屋敷四五、総家数一一六、うち借屋三三・店借二。


肴町
さかなちよう

[現在地名]盛岡市肴町・なか橋通はしどおり一丁目・南大通みなみおおどおり一丁目

葺手ふくで町の南に続く両側町で、南北三町半ほどの町人町(「盛岡砂子」など)。東は遠曲輪の堀、西は呉服ごふく町・六日むいか町、南は十三日じゆうさんにち町に接する。幕末の城下図(葛西氏旧蔵)には、北から一丁目・二丁目・三丁目と記され、元文城下図では町の中ほどから東へ通りが延び、遠曲輪の土橋を隔てて生姜しようが町と接する。「盛岡砂子」には延宝九年(一六八一)に毎月七日・一七日・二七日の市日を命ぜられたとあるが、「御家被仰出」によれば、同様の新市を命ぜられたのは天和二年(一六八二)である。天明八年(一七八八)の家数五三・人数四八九(邦内郷村志)


肴町
さかなまち

[現在地名]佐倉市新町しんまち

新町の東端から成田道に沿って南に延びる両側町。南端を東に折れると間之あいの町。大久保忠朝時代の佐倉絵図(小田原市立図書館蔵)に町名がみえる。「古今佐倉真佐子」は肴町の記事として、馬につけて九十九里から来る魚は古いこと、三月から九月中頃まで鎌倉の漁師が千葉の寒川さんが(現千葉市中央区)で魚をとり江戸のほか佐倉へも馬づけで送る魚は高値だが新鮮で上魚であること、魚市が立ったこと、八百屋はいっさいなく手作りで間に合ったことなどを記す。


肴町
さかなまち

[現在地名]掛川市肴町

掛川宿一三町の一つで、東西に走る東海道の南裏通りの両側町。東は神代地かんだいじ川を境にしお町、南は総構えの堀を隔てて南西郷みなみさいごう村、西は紺屋こうや町、北は連尺れんじやく町に接する。塩町とともに榛原はいばら郡の相良さがら(現相良町)川崎かわさき(現榛原町)の湊に至る街道の起点で、海産物を扱う業者を集住させたのが町名の由来という。「掛川誌稿」によると、慶長年中(一五九六―一六一五)掛川藩主松平隠岐守が肴市の免許を与え、板に書いた定書などがあったが、火災で焼亡したという。正保城絵図では町屋としてみえ、享保(一七一六―三六)頃の掛川城及城下之図(静嘉堂文庫蔵)に肴町と記される。延享二年(一七四五)の役家高人馬覚(問屋要用)では町並は間口一八七間余、歩数三千四一六歩、人馬役家一三軒。


肴町
さかなまち

[現在地名]飯山市大字飯山

ほん町(した町)の北端から直角に東西に通じ、西の愛宕あたご町に至る町筋。飯山城下のうち最初にできた町人町の一つ。北は侍屋敷のゆみ町。

慶長一九年(一六一四)一〇月、町の夜回りを命じた飯山城主堀直寄の書状に「さかな町」の町名がみえる(→本町。堀の水を奈良沢ならざわ方面より取り入れた用水が町の中央を横切り、両側に水溜池があった(「御城并御家中町方惣絵図」飯山小学校蔵)

町の長さ一町二七間七寸、町並は北側に一三軒、南側に八軒と愛宕あたご大門・大輪院だいりんいん店がある(「正徳元年六月飯山町差出帳」高橋英喜氏蔵)


肴町
さかなまち

[現在地名]刈谷市銀座ぎんざ

刈谷城の町口門を出て東に続く町で、道幅一間四尺、多くの商店が並び、ほん町とともに賑やかな商人町であった。天保七年(一八三六)肴町から市原いちはら中根なかね通の間に新道が開かれ、庄屋正木庄三郎の屋敷を通るため正木まさき新道と命名された。新道は嘉永元年(一八四八)正木町として分離した。正木町は、下町したまち通を通って元刈谷もとかりや村に通じる。いわゆる大浜おおはま街道の一部である。

肴町は中根通に通じる。中根通には中士の侍屋敷が並び、明治四年(一八七一)三七戸を数える。中根通から十念じゆうねん寺前に至る道を十念寺通といい、十念寺裏に下士の侍屋敷が明治四年二一戸を数える。


肴町
さかなまち

[現在地名]本荘市肴町

町と猟師りようし町の中間に位置、本荘城下町の町人町である外町の西部にあたる。西にし町・大工だいく町を併せた町という。町名はかつてこの町に魚市場のあったことに由来する。幕末期に西町と田町との間に境論があった(→田町

酒田(現山形県酒田市)矢島やしま(現由利郡矢島町)に通じる要衝であったが、矢島道付替えや魚市場の大町移転により、しだいに寂れた。安政二年(一八五五)の東講商人鑑によれば、西町には「御菓子諸粉子」を扱う笹屋三之助と廻船問屋の佐々木八右衛門・同浅香市兵衛の名前が記されている。


肴町
さかなまち

[現在地名]水戸市ほん町二丁目

檜物ひもの町の東にあり、本三町目と本四町目の境から南に向かい三間さんげん町へ渡る板橋に至る町。東はうら四町目、北は本三町目・本四町目。「水府地名考」に「この町の名は、元和寛永の比より定善寺過去帳にも見ゆ、正保二年の旧記にも、此町名見ゆといふ」とある。「新編常陸国誌」は「其長二十八間五尺アリ〔古記云、東西両側四十七間、戸数十四〕」と記す。当町には魚問屋が数軒あり、浜からくる魚荷を取りさばいた。水戸城下を通り烏山からすやま・栃木(現栃木県)、笠間(現笠間市)などへ出す魚荷も一度はこの問屋を通すのが定法であった。


肴町
さかなまち

[現在地名]八幡町肴町

吉田よしだ川右岸にあり、殿との町およびほん町の通りと直角に交わる。東はやなぎ町の南を経てさくら町に通ずる。慶長五年(一六〇〇)の八幡城合戦を描いた合戦図(延宝二年写、大分県臼杵市立図書館蔵)では加納外記の侍屋敷とされる。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図に町名がみえ、元禄五年(一六九二)城下町家帳(郡上郡史)では家数一二・反別一反余。


肴町
さかなちよう

[現在地名]館林市本町ほんちよう二丁目

館林城の西、日光脇往還の東側、谷越やごえ町の裏通りにあたる魚商の居住地。北は鍛冶かじ町へ続く。延宝二年(一六七四)の城下町図に町名がみえる。「館林記」には萱葺家三六、男七三・女七一、馬二とある。天保七年(一八三六)井上氏が館林へ所替の折の、前城主松平右近将監家中との事務引継上の問答書(青山文書)によれば、御膳肴入用について、松平氏側は町内肴町の湊屋吉蔵が納め、長熨斗などの運上品はないと答えている。


肴町
さかなまち

[現在地名]長野市松代町肴町

中町の東に南北に通る町である。江戸時代には魚問屋・塩問屋が置かれ賑った。町の起りは戦国期東条氏の城下町の一部とも伝えられ、由緒ある町とされ、八月一五日町祇園祭に出る大門おおもん踊の先頭は現在も肴町に優先権がある。寛文一一年(一六七一)の寛文間帳では家数四五軒とあり、安政七年(一八六〇)の書上によると人口は一九四人(男八六人、女一〇八人)、町役負担は他の町人町と同様であるが、「御塩五石弐斗五升出し申筈に御座候」とあり塩役株が決められていて、その負担は全町中、断然多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の肴町の言及

【魚市】より

… しかしこの魚市が発達したのは,江戸時代の都市勃興以後である。伏見には築城のころ魚屋町(伏見区),京都には1637年(寛永14)ころ魚棚町(下京区下魚棚通油小路西入)があり,都市の町名に肴町あるいは魚町,魚屋町などと称されるのは,ほとんど魚市場のあったところである。このほか錦小路魚市場は,近世以降現代でも有名であるが創立年代は不詳である。…

※「肴町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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