波々伯部保(読み)ははかべ

百科事典マイペディアの解説

波々伯部保【ははかべ】

丹波(たんば)国多紀(たき)郡にあった京都祗園(ぎおん)社感神(かんしん)院領。〈ほほかべ〉とも読む。兵庫県篠山(ささやま)市域にあたる。1098年感神院の行円(ぎょうえん)が田地25町余をもって立保したが,国司(こくし)に認められず,収公されている。1130年行円の跡の桓円が丹波国に課された寺院の造営用材を納めたことから保の復活が認められ,以後中世を通じて祗園社領4ヵ保の一つとして推移する。鎌倉後期には開発領主で代々下司職(げししき)を相伝してきたと主張する波々伯部保氏によって押領(おうりょう)が繰り返され,室町期には実体が失われていった。

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世界大百科事典 第2版の解説

ははかべのほ【波々伯部保】

丹波篠山(ささやま)盆地東部(現,兵庫県多紀郡篠山町)に位置した京都祇園感神院の社領。1098年(承徳2)感神院大別当行円が,獲得したばかりの私領の田地25町8反余をもとに立保。この私領は,当地田堵(たと)ら13人が感神院の封物を納める代りに,先祖相伝の田地を共同で行円に譲り渡したものであった。同時に田堵らは感神院の神人(じにん)となったが,国司はこの立保を認めず,まもなく田地は収公される。その後1130年(大治5)に至り,行円の跡を継いだ保司隆円が国司に造寺用の材木を納めたにより,保の復活を認められ,ついで久安年中(1145‐51)には一国平均役(いつこくへいきんやく)免除宣旨も下された。

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