波々伯部保(読み)ほほかべほ

日本歴史地名大系 「波々伯部保」の解説

波々伯部保
ほほかべほ

現篠山市内にあった京都祇園社領。「丹波志」などの江戸時代の諸地誌は、つじ小中こなかみやまえ畑市はたいち畑井はたい北島きたじま井之上いのうえ上宿かみじくを領域としており、篠山盆地東部、篠山川に沿う地域に比定され、宮ノ前の波々伯部神社(祇園牛頭天王社)の祭祀圏とも一致する。

〔園社領四ヵ保〕

承徳二年(一〇九八)一〇月一五日の波々伯部村立券文案(八坂神社文書、以下断りのない限り同文書)によれば、草南条くさのなんじよう波々伯部村の田堵らは二五町八段三〇代の田地を、京都祇園社感神かんじん院の加徴米の代として大別当行円に譲り渡し、行円はそれらの田地を「私坪付」として感神院に寄進した。この田地は川津里・波々伯部里・大針里など一四ヵ里にまたがった散在的なもので、また里・坪による表記がなされているものの、必ずしも一町方格の条里地割の施行を意味してはいない。「殿暦」嘉承元年(一一〇六)九月二九日条には「今夜祇園神人於河原(叫カ)、是丹波国司を訴申」とあり、祇園社神人と丹波国司との間で対立が起きていたことが知られるが、波々伯部村の田地に関するものであった可能性が高い。仁安二年(一一六七)二月五日の感神院大別当桓円解(田中忠三郎氏所蔵文書)によれば、桓円祖父行円が感神院の保に寄進した私領は国司に収公されて数十年に及んだが、丹波国に賦課された造営材木を桓円が国司に提供した功によって、保が再建されたという。しかし仁平四年(一一五四)一〇月からは桓円と継母・異母弟らとの間で保司職をめぐって相論が起き、仁安二年二月の延暦寺政所下文(生源寺文書)によって桓円の知行が認められ、以後師資相承の形をとって実子に相続されていく。

保元三年(一一五八)四月五日の感神院所司解では、波々伯部村は感神院の日別御供米が便補された一色不輸の保で、大嘗会雑事や国衙万雑所役・内裏雑事などが免除されているにもかかわらず、留守所は事を朱雀門所役に寄せて一五人の夫役を宛行い、使を保内に入れて責めたため、保民は逃散してしまったと訴えている。また同年五月一八日の感神院所司解では相撲役、一一月一一日の同解では大極殿廻廊料の檜皮四〇囲の免除が要求されている。波々伯部保は感神院が権利を有していた波々伯部村の田地に、感神院の神事用途料御封が便補されて、田数一九町余の保として確立していくのであり、以後中世を通じて近江国坂田さかた(現滋賀県長浜市)守富もりとみ(現同県蒲生郡)などとともに祇園社領四ヵ保の一つとして重要所領となっていく。

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改訂新版 世界大百科事典 「波々伯部保」の意味・わかりやすい解説

波々伯部保 (ははかべのほ)

丹波篠山(ささやま)盆地の東部(現,兵庫県篠山市中東部)に位置した京都祇園感神院の社領。1098年(承徳2)感神院大別当行円が,獲得したばかりの私領の田地25町8反余をもとに立保。この私領は,当地の田堵(たと)ら13人が感神院の封物を納める代りに,先祖相伝の田地を共同で行円に譲り渡したものであった。同時に田堵らは感神院の神人(じにん)となったが,国司はこの立保を認めず,まもなく田地は収公される。その後1130年(大治5)に至り,行円の跡を継いだ保司隆円が国司に造寺用の材木を納めた功により,保の復活を認められ,ついで久安年中(1145-51)には一国平均役(いつこくへいきんやく)免除の宣旨も下された。鎌倉後期以降,開発領主として下司職(げししき)を代々相伝してきたと主張する波々伯部氏が台頭,近隣の国人(こくじん)とともに保の押領(おうりよう)をくり返した。感神院側は宝寿院顕詮が在地に下向し直務(じきむ)支配を企てるなど,支配の維持に努めたが,室町期にはしだいに退転(実態が失われること)していった。
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百科事典マイペディア 「波々伯部保」の意味・わかりやすい解説

波々伯部保【ははかべ】

丹波(たんば)国多紀(たき)郡にあった京都祗園(ぎおん)社感神(かんしん)院領。〈ほほかべ〉とも読む。現兵庫県篠山(ささやま)市域にあたる。1098年感神院の行円(ぎょうえん)が田地25町余をもって立保したが,国司(こくし)に認められず,収公されている。1130年行円の跡の桓円が丹波国に課された寺院の造営用材を納めたことから保の復活が認められ,以後中世を通じて祗園社領4ヵ保の一つとして推移する。鎌倉後期には開発領主で代々下司職(げししき)を相伝してきたと主張する波々伯部保氏によって押領(おうりょう)が繰り返され,室町期には実体が失われていった。

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世界大百科事典(旧版)内の波々伯部保の言及

【波々伯部保】より

…その後1130年(大治5)に至り,行円の跡を継いだ保司隆円が国司に造寺用の材木を納めた功により,保の復活を認められ,ついで久安年中(1145‐51)には一国平均役(いつこくへいきんやく)免除の宣旨も下された。鎌倉後期以降,開発領主として下司職(げししき)を代々相伝してきたと主張する波々伯部氏が台頭,近隣の国人(こくじん)とともに保の押領(おうりよう)をくり返した。感神院側は宝寿院顕詮が在地に下向し直務(じきむ)支配を企てるなど,支配の維持に努めたが,室町期にはしだいに退転(実態が失われること)していった。…

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