洞院公賢(読み)とういんきんかた

精選版 日本国語大辞典 「洞院公賢」の意味・読み・例文・類語

とういん‐きんかた【洞院公賢】

鎌倉・南北朝時代の公卿。太政大臣。法名空元。左大臣洞院実泰の子。北朝・南朝の両朝において登用された。延文四年(一三五九出家学識豊かで故実に通じていた。著書に「拾芥抄」「皇代暦」「歴代最要鈔」、日記園太暦(えんたいりゃく)」がある。正応四~延文五=正平一五年(一二九一‐一三六〇

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デジタル大辞泉 「洞院公賢」の意味・読み・例文・類語

とういん‐きんかた〔トウヰン‐〕【洞院公賢】

[1291~1360]南北朝時代の公卿。有職故実に明るく、南北両朝から信任され、左大臣・太政大臣に任じられた。「拾芥抄」「歴代最要抄」などの編著のほか日記「園太暦えんたいりゃく」がある。中園入道相国。

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改訂新版 世界大百科事典 「洞院公賢」の意味・わかりやすい解説

洞院公賢 (とういんきんかた)
生没年:1291-1360(正応4-正平15・延文5)

鎌倉末~南北朝時代の公卿。父は左大臣実泰,母は入道中納言藤原公雄の女,従二位季子。1294年(永仁2)従五位上,1309年(延慶2)参議からさらに権中納言,大納言を経て,30年(元徳2)には内大臣となったが31年(元弘1)の元弘の乱のために辞職した。33年建武政権成立とともに還任し,35年(建武2)には従一位右大臣に昇進した。南北両朝に分裂後は北朝に属し,43年(興国4・康永2)左大臣,48年(正平3・貞和4)太政大臣となり,49年牛車に乗って宮中出入りが許された。59年(正平14・延文4)4月15日出家,法名を空元という。中園入道相国と呼ばれる。学識豊かで故実にも明るく,朝儀に寄与すること大であった。北朝で人望があっただけでなく,子の実世が南朝に仕えたこともあって南朝にも評判がよく,正平の一統の際には南朝から太政大臣に任ぜられ,さらに南朝方が撤退したのちはまた北朝に重用されるなど,その立場は複雑であった。《皇代暦》《歴代最要鈔》などの著書がある。日記は中園太相国にちなんで《園太暦》といい,この時代の故実典礼,政治などを知るうえでの重要な資料となっている。
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朝日日本歴史人物事典 「洞院公賢」の解説

洞院公賢

没年:延文5/正平15.4.6(1360.4.21)
生年:正応4(1291)
鎌倉・南北朝時代の公卿。法名は空元で,中園入道相国と号す。父は洞院実泰,母は小倉公雄の娘季子。阿野廉子養女に当たる。正応5(1292)年に叙爵,延慶1(1308)年従三位,同2年左大弁,参議となり,権中納言,権大納言,大納言を経て,元徳2(1330)年に内大臣,建武2(1335)年には従一位,右大臣となり,春宮(恒良親王)傅を兼ねる。北朝の康永2/興国4(1343)年左大臣,貞和2/正平1(1346)年太政大臣に進み,光厳上皇の院政では評定衆,院執事を務めた。観応2/正平6(1351)年の南朝による正平一統のときには,左大臣,後院別当に任ぜられて後村上天皇より朝議運営を頼まれ,翌々年には南朝より太政大臣に任ぜられている。公賢は北朝の朝廷の重鎮であり,その識見により南朝方からも信頼されていた。延文4/正平14(1359)年に出家。日記『園太暦』(1343~60)は南北朝時代の重要史料である。公賢は天皇,上皇,幕府,公家からの先例,故実についての質問に対し明快的確に答えており,この日記は後代に儀式,有職故実の有力な典拠とされた。著書には『歴代最要抄』『皇代暦』などがあり,歌集に『中園相国集』がある。<参考文献>林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』

(伊東正子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「洞院公賢」の意味・わかりやすい解説

洞院公賢
とういんきんかた

[生]正応4(1291)
[没]正平15=延文5(1360).4.6.
鎌倉時代末期から南北朝時代の廷臣。実泰の子。母は小倉公雄の娘季子。永仁5 (1297) 年侍従,延慶1 (1308) 年従三位,翌年参議,元徳2 (30) 年内大臣。後醍醐天皇の信任を得たが,南北朝分裂のときは京都に残った。北朝の重臣として興国4=康永2 (43) 年左大臣,正平3=貞和4 (48) 年太政大臣に就任。最高の知識人として朝幕の尊敬を集めた。南朝の重臣であった子の実世とは表向き義絶していたが,内々連絡があったらしく,正平6=観応2 (51) 年の天下一統に際し左大臣となり,当時の政界の収拾に大きな役割を果した。日記『園太暦』をはじめ『皇代暦』『歴代最要鈔』などの著書があり,『拾芥抄 (しゅうがいしょう) 』も彼の著といわれる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「洞院公賢」の解説

洞院公賢 とういん-きんかた

1291-1360 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
正応(しょうおう)4年8月13日生まれ。洞院実泰(さねやす)の長男。母は小倉公雄(きんお)の娘。建武(けんむ)の新政で右大臣,南北朝分裂後は北朝の光厳上皇につかえ,太政(だいじょう)大臣となる。正平(しょうへい)一統につくすなど南朝の信頼もうけた。有職(ゆうそく)家としても知られる。従一位。中園(なかぞの)入道相国と称された。延文5=正平15年4月6日死去。70歳。著作に「皇代暦」,編著に「拾芥(しゅうがい)抄」。日記に「園太暦(えんたいりゃく)」。
【格言など】近来武士の所存皆かくのごとし。資をもって,その恥に替えんと欲するか(「園太暦」)

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百科事典マイペディア 「洞院公賢」の意味・わかりやすい解説

洞院公賢【とういんきんかた】

鎌倉末〜南北朝時代の公卿(くぎょう)。実泰の子。1330年内大臣,翌年辞官。建武政権成立とともに還任(げんにん),右大臣となったが,南北朝分裂後は北朝に仕えて左大臣・太政大臣を歴任。学識高く,有職(ゆうそく)故実に詳しく,《皇代暦(こうだいれき)》《歴代最要鈔》などを著した。日記《園太暦(えんたいりゃく)》がある。
→関連項目拾芥抄

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367日誕生日大事典 「洞院公賢」の解説

洞院公賢 (とういんきんかた)

生年月日:1291年8月13日
鎌倉時代後期;南北朝時代の公卿
1360年没

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世界大百科事典(旧版)内の洞院公賢の言及

【園太暦】より

…鎌倉時代末~南北朝時代初期の貴族洞院公賢の日記。記事は1311年(応長1)より60年(正平15∥延文5)に至るが,散逸した部分も多い。…

【拾芥抄】より

…3巻。編者は洞院公賢あるいは洞院実熙というが,原型は鎌倉中期に成りその後増補が加えられていったものと考えられる。《拾芥略要抄》《略要抄》ともいう。…

※「洞院公賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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