デジタル大辞泉
「三宅観瀾」の意味・読み・例文・類語
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三宅観瀾
みやけかんらん
(1674―1718)
江戸中期の儒学者、歴史学者。諱(いみな)は緝明(しゅうめい)、字(あざな)は用晦(ようかい)、通称九十郎、号は観瀾また端山(たんざん)。町人儒者三宅道悦(どうえつ)(正清)の子として京都に生まれる。懐徳堂(かいとくどう)学主三宅石庵(せきあん)(1665―1730)の弟。初め崎門(きもん)学者浅見絅斎(あさみけいさい)に学び、のち江戸に出て木下順庵(きのしたじゅんあん)の門に入る。1697年(元禄10)水戸藩の彰考館(しょうこうかん)に入り、1710年(宝永7)その総裁となったが、翌1711年去って幕府に仕えた。主著は建武(けんむ)の新政(中興)の得失を論じた『中興鑑言(かんげん)』。享保(きょうほう)3年8月26日没。
[瀬谷義彦 2016年7月19日]
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三宅観瀾
没年:享保3.8.21(1718.9.15)
生年:延宝2(1674)
江戸中期の儒学者。名は緝明,字は用晦,通称は九十郎。観瀾はその号。京都の町人儒者三宅道悦の子で,大坂懐徳堂の学主三宅石庵の弟。元禄11(1698)年江戸に下り,翌年栗山潜鋒の推薦で水戸藩に仕え,彰考館編修となり『大日本史』編纂に従事。13年200石を給され,宝永5(1708)年編修兼務で進物番に昇進。6年「将軍伝私議」を草し,鎌倉・室町幕府の将軍が政権を掌握している実態に即し,将軍伝を本紀に準じて取り扱う策を講ずべしと論じ,採用された。栗山潜鋒著『保建大記』の序文(観瀾筆)によると,潜鋒は神器正統論を,観瀾は正統在義論を唱えて両者の間に論争があったという。7年彰考館総裁に就任したが,翌正徳1(1711)年新井白石の推薦で幕府の儒官に転じた。後醍醐天皇の政治の得失を論じた『中興鑑言』をはじめ,『烈士報讐録』などの著がある。<参考文献>吉田一徳『大日本史紀伝志表撰者考』,『水戸市史』中巻1
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三宅観瀾 (みやけかんらん)
生没年:1674-1718(延宝2-享保3)
江戸中期の史学者。名は緝明(つぐあき),通称は九十郎,観瀾は号。京都の町人儒者三宅道悦の子で三宅石庵の弟。浅見絅斎(けいさい)の門に入ったが,のち破門された。1699年(元禄12)水戸藩に仕え彰考館編修。南朝の史実に詳しく《中興鑑言》を著し,また楠木氏,新田氏などの《大日本史》列伝を執筆した。1710年(宝永7)彰考館総裁となったが,翌年幕府の儒臣に登用された。著書はほかに《論賛駁語》《観瀾文集》などがある。
執筆者:鈴木 暎一
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三宅観瀾【みやけかんらん】
江戸中期の朱子学者,史学者。名は緝明(つぐあき),字は用晦,通称は九十郎。京都の人。三宅石庵の弟。浅見絅斎,木下順庵に学ぶ。1699年より水戸藩に仕え,1710年彰考館総裁となり,翌1711年新井白石に推されて幕府儒官となった。南朝の史実に詳しく著書《中興鑑言(ちゅうこうかんげん)》《観瀾文集》など。
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三宅観瀾
みやけかんらん
[生]延宝2(1674).京都
[没]享保3(1718).8.26.
江戸時代中期の朱子学派の儒学者。名は緝明,字は用晦,通称は九十郎。儒学者三宅石庵の弟。初め浅見絅斎に,のち江戸に出て木下順庵に朱子学を学んだ。元禄 12 (1699) 年水戸光圀に招かれ,彰考館総裁となり,『大日本史』の編纂に従事。正徳1 (1711) 年新井白石の推挙により儒官として江戸幕府に出仕。主著『中興鑑言』。
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三宅観瀾 みやけ-かんらん
1674-1718 江戸時代中期の儒者。
延宝2年生まれ。三宅石庵の弟。浅見絅斎(けいさい),木下順庵にまなぶ。徳川光圀(みつくに)の招きで彰考館にはいり,「大日本史」の編修にくわわり,南朝武将列伝を担当。宝永7年(1710)総裁となり,翌年幕府儒官に登用された。享保(きょうほう)3年8月26日死去。45歳。京都出身。名は緝明。字(あざな)は用晦。通称は九十郎。著作に「中興鑑言」「観瀾文集」など。
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三宅観瀾
みやけかんらん
1674〜1718
江戸中期の儒学者
京都の人。一説に美濃(岐阜県)の人。浅見絅斎 (けいさい) ・木下順庵に学び,崎門 (きもん) 学派十哲の一人。水戸藩の徳川光圀 (みつくに) に招かれ,『大日本史』の編纂にあたり,のち新井白石の推挙で幕府の儒臣となった。
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