海部郷(読み)あまべごう

日本歴史地名大系 「海部郷」の解説

海部郷
あまべごう

和名抄」高山寺本に「海部」と記し、「阿末ヘ」と訓じているが、流布本には「安末無倍」と読ませている。当時「あまべ」または「あまんべ」と呼称していたものであろう。

「日本地理志料」は「海野丸子飯沼千曲川、或在此間也、按図亘坂井さかい石井いしい長瀬ながせ上丸子かみまるこ中丸子なかまるこ下丸子しもまるこ塩川しおがわ藤原田ふじわらた南方みなみがた御嶽堂みたけどう飯沼いいぬま小野山おのやまノ諸邑、曰塩川、蓋其地也」と記し、「大日本地名辞書」は、「今詳ならず、もしくは依田・丸子の辺にやというも徴証なし、猶考うべし」としている。


海部郷
あまごう

「和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。「和名抄」郡部の訓には、東急本・元和古活字本それぞれ「阿末」と記し、高山寺本の郷里部に「アマヘ」とする。海部郡家は、おそらく郡名と名を同じくするこの郷にあったものと考えられる。郷名は、八世紀中頃の貢進仕丁歴名帳(正倉院丹裏古文書)に、「伊河原人足年十八尾張国海部郡海部郷戸主伊河原馬養戸口」とあるのが初見。ちなみに、藤原宮出土木簡には、「海評海里軍布(カ)」「海評海里□廿斤」「海評海里軍布」「海評海里人小宮軍布」と、海評海里のものが四例みられる。いずれも浄御原令制下のもので七世紀末頃の資料である。


海部郷
かいふごう

「和名抄」高山寺本・伊勢本・東急本は「加伊布」と読み、同書名博本は「カイフ」と訓を付す。「阿府志」は「上ハ阿部伊佐利由岐木岐ヨリ下ハ鞆奥浦奈佐宍喰ナリ」としてほぼ現海部郡全域を当郷に比定する。「阿波志」は海部郡の部で「和名抄所載那賀郡凡八郷、今録二郷余係那賀郡」として、現海部郡のうち和射わさ郷以外の地を当郷であるとする。明治一八年(一八八五)編の海部郡郡誌は「東ハ伊座利浦ヨリ西ハ宍喰浦マテノ海辺ノ地スヘテ海部郷ナルヘキカ」として現海部郡の海辺部分に比定している。また「大日本地名辞書」は浅川あさかわ村・川東かわひがし(現海南町)、川西村・鞆奥ともおく(現海部町)宍喰ししくい(現宍喰町)および土佐国安芸郡甲野浦かんのうら村・野根のね(現高知県東洋町)すなわち下灘しもなだと高知県の一部に比定する。


海部郷
あまごう

「和名抄」高山寺本・刊本とも訓を欠くが、尾張の海部郡を高山寺本は「アマヘ」、刊本は「阿末」と訓じている。郷域と考えられる現熊野郡久美浜くみはま町に「海士」という地名が伝わり、「あま」とよびならわすので、今はこれに従う。

熊野郡には海部里に海部直が館を造って国府となしたという伝説がある。海士の村はずれの丘陵に館跡と伝える六宮廻ろくのまわり(現在は楼宮廻と記し、ろうみやまわりと読む)の地名があり、また海部直の祖である建田背命およびその子武諸隅命・和田津見命を祀る矢田やた神社がある。


海部郷
かいふごう

現海部町・海南かいなん町域に比定される中世の郷。嘉禎三年(一二三七)五月四日の官宣旨(九条家文書)に「阿波国管那賀郡海部并浅河・牟岐参箇郷」とあり、この三ヵ郷は本主謀反の罪で没収され、将軍家から地頭が補任されて国使不入の地となっていたが、地頭の藤原定員が三ヵ郷を最勝金剛さいしようこんごう(現京都市東山区)に寄進、同院領として立券され、不輸庄として官物・国役を免じられている。


海部郷
あまべごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「海部」と記し、訓を欠く。「土佐幽考」は「未考今須崎村有上郷・下郷・間郷等之名、蓋是歟」とするが、「日本地理志料」は「亘安和・須・池ノ内・押岡・神田・吾井ノ郷・多野郷・桑田山・下郷・下分・上分ノ諸邑、曰津野荘、是其域也」とし、中世の津野つの庄のうちで、現須崎市西部に比定する。「大日本地名辞書」は「今多野郷村、吾桑村、須崎町、新荘村、上分村等なるべし、新居高崗二郷の西にして、海澳あり、中世には津野庄と称す、津頭の義なるべし、今も須崎は土州屈指の良港とす、亦其由来する所を想ふべし」とする。


海部郷
あまごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本では安万、東急本などでは阿万の訓をを付すが、名博本はアマヘと訓じている。古代の海民海部の居住地に由来する郷名という。天長五年(八二八)市原郡海部郷の戸主刑部小里人が庸の白布一段(長さ二丈八尺・広さ二尺四寸)を貢納しており、国司とともに専当郡司として大領の谷直国主(外従七位上勲七等)が署名している(「正倉院調庸関係白布銘文」正倉院宝物銘文集成)


海部郷
あまごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「海」と記すが訓を欠く。「芸藩通志」は「海は郡の海部、今の能美及び諸島の総称、其義安芸郡安満と同じ」とする。「日本地理志料」は諸本「部」の字を欠くが補って「海部」とし、「阿末」と読むとする。海を海田かいた(現安芸郡海田町)の誤りとする説があるが、それについては、海田は安芸郡に属すとして退ける。

「大日本地名辞書」も「海部郷」とし、「原書海部の下字なし、今安芸郡安満郷あり、又諸州に海部あるに拠り之を補ふ、蓋今の地御前村宮内村などなるべし」とし、厳島の社伝に浦辺の海人が厳島社を初めて祀ったとするところから推考して、厳島社の外宮のある地御前じごぜん(現佐伯郡廿日市町)の辺りとすると述べる。


海部郷
あまんべごう

「和名抄」高山寺本は「安末无倍」、東急本は「安万無倍」と訓ずる。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。また天平三年(七三一)二月二六日付越前国正税帳(正倉院文書)に坂井郡郡司少領外正八位下勲十二等海直大食がみえ、この「海」は「海部」と考えられる。


海部郷
あまごう

「和名抄」高山寺本は「安万」、東急本は「阿末」の訓を付す。郷域について「三国地志」は「玉垣ノ村里海辺ニアリシトキノ旧名ナリ」として現鈴鹿市の玉垣たまがき町、「布留屋草紙」は同市南・北長太なご町、南・北堀江ほりえ町付近に、「大日本地名辞書」は長太から現三重郡くす町に及ぶと比定する。


海部郷
あまごう

「和名抄」所載の郷。同書東急本は「安末」の訓を付す。藤原宮跡出土木簡に海評海里軍布など貢進海産物荷札が多くみえる。平城京二条大路跡出土木簡によれば天平七年(七三五)海部郡海部郷宇智うち里の勝部黒島が調四斤を納めているほか、海部郷志吉しき里の壬生部池田が海藻六斤を納入するなどの貢進海産物荷札が知られる。


海部郷
あまごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、高山寺本の訓「阿末」、伊勢本・東急本・元和古活字本の訓「安万」から「あま」と読む。


海部郷
あまごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「和名抄」の宗像郡海部郷の訓により「あま」と読む。


海部郷
あまごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。同書の筑前国宗像郡海部郷の訓により「あま」と読む。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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