(読み)ヨド

デジタル大辞泉 「淀」の意味・読み・例文・類語

よど【淀】

京都市伏見区南西部の地名。宇治川桂川木津川合流点近くにあり、淀川舟運の河港として栄えた。江戸時代は松平・稲葉氏の城下町

よど【×淀/×澱】

水の流れが滞ること。また、その所。よどみ。
軒先の広小舞ひろこまいの上にある横木。淀貫よどぬき

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精選版 日本国語大辞典 「淀」の意味・読み・例文・類語

よど【淀・澱】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 水が流れないでよどむこと。また、その所。よどみ。
      1. [初出の実例]「松浦川七瀬の与騰(ヨド)はよどむともわれはよどまず君をし待たむ」(出典:万葉集(8C後)五・八六〇)
    2. 物事が渋り滞ること。すらすらと進まないこと。よどみ。
      1. [初出の実例]「早せかは月日のよとはありてふを暫とまらぬ年なみのうさ」(出典:宗良親王千首(1377)冬)
    3. 軒先の広小舞(ひろこまい)の上にある、幅約一五センチメートル、厚さ約四・五センチメートルの横木。よどぬき。よどぎ。
  2. [ 2 ] ( 淀 ) 京都市伏見区の地名。淀川に沿う低湿地で、木津・桂・宇治の三川の合流点付近にある。古代から京都の外港をなす淀川水運の河港として繁栄安土桃山時代に淀城築城、江戸時代は稲葉氏一〇万石の城下町。
    1. [初出の実例]「あさなぎにさをさすよどのかはをさもこころとけてははるぞみなるる」(出典:曾丹集(11C初か))

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改訂新版 世界大百科事典 「淀」の意味・わかりやすい解説

淀 (よど)

京都市伏見区の地名。かつては木津川,宇治川,桂川の三川合流地点,淀川の起点にあたり,山陽・南海両道の諸国貨物の奈良・京都への陸揚港として栄え,淀津(よどのつ)といわれた。現在の淀水垂(みずたれ)町,淀大下津(おおしもづ)町,納所(のうそ)町あたりである。

《日本後紀》は804年(延暦23)桓武天皇の〈与度津〉行幸を記しており,平安京の設置によって重要性が高まったことがわかる。9世紀以降,淀津は山崎津(山城),大津(近江)とともに,畿内の重要港津として検非違使庁の管轄下に入れられ,津政所がおかれ,津刀禰(とね)が現地管理の仕事をしていた。《権記》によれば1000年(長保2)新造内裏落成の仁王会料米に大宰府所進の米をあて,淀から取り寄せており,内蔵寮領の倉庫が淀にあったことがわかる。また1129年(大治4)の東大寺へ運上される筑前国金生封の年貢米は,淀津の〈千寿丸納所〉から結解(決算)されているが,これは千寿丸管理の納所(倉庫)であろう。内膳司付属の淀御贄所や,四衛府の供御所もおかれていた(〈北山抄紙背文書〉)。淀供御所には預,執行がおかれ,供御人は狩取,川狩と呼ばれ,漁労や廻船に従事していた。1072年(延久4)の荘園整理令に関する太政官牒(《石清水文書》)には,淀川原崎地畠8町と在家および空閑地2町が与等左衛門志真文によって石清水八幡宮に寄進され,地子が宮寺の神用に,住人の公事は国衙に納められていたこと,住人が八幡宮神人,四衛府供御所狩取,諸家散所雑色といって公事をつとめないことを記している。結局,荘園は停止され,地子の収益のみが認められたが,後代には八幡宮領となっている。

 平安期には摂関家領淀左右散所がおかれ,藤原頼通の高野山参詣には,淀,山崎の刀禰散所等が検非違使の指令で11艘の板屋形船を造進している。摂関家の散所設定およびその支配に関しては,刀禰さらに検非違使が介在していたことがわかる。藤原忠実時代に成立の摂関家年中行事を記した《執政所抄》にみえる〈淀刀禰,淀辺梶取(船頭)〉たちは,菖蒲,蓬などを貢進している。また三条家の淀別荘には,付属地として淀相模窪に畠7段余と在家26宇が所属しており,この在家が勤仕していた地子・雑公事は,藁,昌,瓜茄子,薪,鮮魚などの貢進と,舁据屋形船で上下川尻と木津,鳥羽殿辺に連日,召にしたがって奉仕することであった。

 このように,交通の要衝として,官衙・社寺・諸家の倉庫が設定された淀津には,物資の輻湊に応じて,関所が設けられた。《妙槐記》に1261年(弘長1)淀津関所料を金剛山内外院寺社の造営料として5ヵ年を限り,寄進したことがみえている。その関所料は上洛船一艘別銭貨拾文であった。文中に〈八幡宮大塔の例に任せ〉とあり,すでに石清水八幡宮や高野山大塔に寄進されていたことがわかる。その後,東寺,春日社,達磨寺,高野山大塔,延暦寺,園城寺にも年限をきって寄進された。1311年(応長1)には淀津関米半分が宣旨によって,永代に高野山大塔修造料所に寄進されている。その収入は1341年(興国2・暦応4)の園城寺への関務請負額では1100貫であった。

 一方,淀津には,淀魚市が鎌倉初期から存在しており,塩や塩合物(塩魚)専門の市場として,鎌倉末期にはそれらを積む船の着岸強制・購入独占権を有していた。1306年(徳治1)〈東寺百合文書(評定引付)〉によれば,年貢船であることを示す笠符をもたなかった東寺領弓削島荘からの塩船が淀魚市に抑留された事件があり,年貢物以外の商品塩等についての独占権をみることができる。それ以前,1292年(正応5)弓削島荘から淀大渡に着岸した東寺の年貢塩が,問丸の媒介で京都の塩屋に売られ,その塩屋がそれを倍に売ったということもあった。これらからみて,問丸は本来は淀津着岸の年貢物の中継や売買に従ったものであろう。鎌倉中期以降には官衙が財政補塡策として増大する商品流通に課税する関所を立てたが,おそらく淀でも塩,塩合物の商品に課税する関所が設置され,その徴収を請け負った〈淀魚市問丸〉が,その権限を商品塩,塩合物の着岸強制・購入独占権にまで拡大したものと考えられる。なお,この魚市問丸が徴収した関税は1393年(明徳4)には西園寺家に納入されており,1458年(長禄2)には年額269貫余納入されていた。そのほかに幕府,京極家,三条西家が収納者となった時期もあった。

 淀津の都市としての繁栄は鎌倉期にも顕著で,《海道記》は鎌倉を〈大淀のわたりに異ならず〉と記しているほどである。下って1490年(延徳2)《大乗院寺社雑事記》には〈淀ハ皆以八幡領也,千間在所也云々〉と記している。またここに淀藤岡城があったことは,1504年(永正1)ここにこもった薬師寺与一(元一)の敗退を伝える《細川両家記》《実隆公記》に明らか。
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淀君の淀城も納所にあったが,1623年(元和9)松平定綱が淀に3万5000石で入封し(淀藩),ついで33年(寛永10)永井尚政が10万石で入り,淀城下町が整備され,淀の近世的景観が確立した。松平定綱は淀古城のつくられた納所ではなく,宇治川をはさんだ対岸の川中島に新淀城を建設,そこに池上町,下津町の城内町を形成させた。定綱にかわって入封した永井尚政は37年城郭と城下町の拡大のため,淀城に向かって北流していた木津川の流路を西へつけ替える大工事を行った。これにより城内町として新町が造成され,城の内外にも多くの家臣団の屋敷が林立したという。淀城は宇治川と木津川の合流する三角州に位置し,納所町との間の宇治川に淀小橋,美豆村との間の木津川に淀大橋が架けられ,伏見から淀城下を経て枚方(ひらかた)へ至る往還も確立された。

 《東海道宿村大概帳》によると,淀宿は1369石余で,宿内町並は東西14町57間余,本陣も脇本陣もないが旅籠屋(はたごや)が16軒,宿建人馬は100人100疋の定めで人馬継問屋場は納所町にあった。助郷(すけごう)村は乙訓・久世両郡のうちの近隣17ヵ村で助郷高合計は7114石に上った。同書には,淀宿は農業のほか旅籠屋渡世や食物を商う茶店を営むものがあるが,納所町,水垂町,大下津町には船頭や馬方などの交通運輸にかかわる職種が多く,池上町,下津町,新町には諸商人や諸職人が多いと,城外町と城内町とでは職掌に差がみえることを記している。淀は淀船と呼ばれる20石積の小船の根拠地であり,淀川本流で活躍する過書船,伏見船と,その権益をめぐってたびたび対立した。また納所の唐人雁木と呼ぶ船着場は朝鮮通信使の上陸地であり,淀城の北と西の揚水用大水車は,淀の景物として親しまれた。1957年伏見区に編入。
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日本歴史地名大系 「淀」の解説


よど

歌枕。「五代集歌枕」にあげられる。菰・菖蒲が繁茂する水郷として歌に詠まれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「淀」の意味・わかりやすい解説


よど

京都市伏見(ふしみ)区南西部の一地区。旧淀町で、1957年(昭和32)伏見区に編入。宇治(うじ)川、桂(かつら)川、旧木津(きづ)川の三川の合流点にあたり、標高11メートルの低湿地をなしている。『日本後紀』には「与等津」とあり、平安京の外港として、中世まで全国荘園(しょうえん)の貢租米の荷揚げが行われ、また淀魚市として栄えた。江戸時代、淀の納所(のうそ)は伏見とともに淀川水運の本拠地をなした。また軍事上の要地でもあり、戦国時代から納所の地に淀城が置かれた。豊臣(とよとみ)秀吉も一時淀君のために淀城を修築したが、伏見城完成とともに取り壊した。1623年(元和9)京都守護のため、松平定綱(さだつな)は現在の淀本町に築城した。以後、淀藩の城下町、また東海道の淀宿として繁栄した。1868年(明治1)鳥羽(とば)・伏見の戦いで淀城は焼失。現在、本丸の石垣と内堀の一部を残し、淀城跡公園となっている。明治になって大阪―京都間に鉄道が開通し、淀川水運は急速に衰退した。明治末年京阪電鉄の開通によって京都・大阪への通勤者が増加して宅地化が進み、低湿地を利用して京都競馬場がある。

[織田武雄]

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百科事典マイペディア 「淀」の意味・わかりやすい解説

淀【よど】

京都市伏見区の一地区。桂川と宇治川の合流点付近にある古来の要地で,1587年豊臣秀吉が補修し淀君を住まわせた淀城があり,淀川水運の河港として栄えた。伏見城築城,伏見港開設により衰微。近年宅地化が著しい。淀城跡,京都競馬場がある。
→関連項目加納藩鳥羽作道

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「淀」の意味・わかりやすい解説


よど

京都市伏見区の一地区。古く与等,与杼とも書かれた。市域の南端部,宇治川北岸に位置。旧町名。 1957年京都市に編入。京都競馬場の所在地として知られる。江戸時代には宇治川,木津川,桂川がこの付近で合流し,河川水運の要地であった。また豊臣秀吉によって淀城が築かれ,城下町としても発展した。旧河床,自然堤防を利用して近郊野菜を栽培。近年,宅地化が進む。

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旺文社日本史事典 三訂版 「淀」の解説


よど

京都市伏見区南部の一地区で,中世に繁栄した港町
淀川・木津川・宇治川の合流点に近く,古くから西国から京都へ送られる物資の集積地として発展。問丸 (といまる) が発達し,室町中期に栄えた魚市場は有名。

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