日本大百科全書(ニッポニカ) 「弓削島荘」の意味・わかりやすい解説
弓削島荘
ゆげしまのしょう
瀬戸内海の愛媛県越智(おち)郡上島(かみじま)町弓削島にあった中世荘園。この荘園がとくに有名なのは、塩を年貢としており、中世塩業の研究に重要な素材を提供しているためである。弓削島荘は立荘以降、鳥羽院(とばいん)領から後白河(ごしらかわ)院領となり、いわゆる長講堂(ちょうこうどう)領の一つであった。その後宣陽門院(せんようもんいん)領となり、女院から1239年(延応1)東寺(とうじ)に寄進された。1188、89年(文治4、5)の検注によれば、田地3町3反180歩、桑373本、畠(はた)26町3反180歩となっている。年貢はそれぞれ米4石8斗5升、塩373籠(かご)、麦12石3斗1升4合となっているが、麦は塩で代納されており、塩が年貢の中心になっていた。この検注で13町4反の末久名(すえひさみょう)(下司(げし)名)と22名の百姓名に編成された。各名には交易(かわし)畠と塩浜が配分されていたと考えられる。交易畠は塩を貢納するかわりに与えられた畠である。
東寺は13世紀末の正応(しょうおう)年間(1288~93)地頭小宮氏と弓削島荘の知行(ちぎょう)をめぐって争い、鎌倉での訴訟となった。判決が出るまで数年もかかり、雑掌の鎌倉滞在も1年以上に及び、その費用は莫大(ばくだい)であった。そこで京―鎌倉間の送金に替銭(かえぜに)(為替(かわせ))が用いられたが、これは為替の早い例として有名である。地頭との争いは1303年(嘉元1)に3分の2を領家、3分の1を地頭とする下地(したじ)分割の和与(わよ)が成立し、13年(正和2)島を三分することになった。しかし、14世紀なかば以降になると小早川(こばやかわ)氏などの支配力が及んでくる。弓削島の塩は、名主でもある梶取(かじとり)が請け負って淀津(よどのつ)まで運ばれ、京都の塩商人に売却され、東寺はその代価を受け取った。
[蔵持重裕]
『渡辺則文著『日本塩業史研究』(1971・三一書房)』▽『高重進著『古代・中世の耕地と村落』(1975・大明堂)』▽『網野善彦著『中世東寺と東寺領荘園』(1978・東京大学出版会)』▽『林屋辰三郎編『兵庫北関入舩納帖』(1983・中央公論美術出版)』